陸揚げされた姫路藩水軍の威容
船屋形(神戸市) 古きを歩けば(37)
神戸市中央区にある日本庭園「相楽園」。緑に包まれた池のほとりに、桧皮葺(ぶ)きで総漆塗りの家屋がたたずむ。江戸時代に姫路藩主が河川で用いた「川御座船」の上部構造を解体し、陸上に移築した「船屋形」だ。
■柱材に木肌見せる「春慶塗」
春と秋に、窓からのぞき込む形で内部を一般公開している。今秋は11月3日の予定だ。特別に内部に入らせてもらった。室内も総漆塗り。天井や壁面、柱材は木肌の見える「春慶塗」で、建具などは黒漆塗で仕上げられ、鮮やかなツートーンを呈している。随所に輝く飾り金具は金箔張りで、唐草など繊細な文様が刻んである。窓から池の水面を望むと、風がそよぎ、ゆったりと船が進んでいるかのような気分にさせてくれた。
家屋は2階建てで1階、2階とも3部屋に分かれた構造になっている。2階の前方にあるのは船の指揮を執る「床几(しょうぎ)の間」。中央の一段高くなっている部屋は、藩主が座る「上段の間」。一番後ろは家臣らが控える「次の間」だ。解体した際、部材に「御召川御座」の墨書とともに各部屋の名称が記してあり、確認できたのだという。
■明治期には茶室として民家に移築
部屋に入ると、天井が低い。重心を下げて安定性を高めるためとみられる。神戸市教育委員会の前田佳久さんによると「これでも明治期に移築した際、1階部分をかさ上げしています。もとは1階は立って歩けないほど天井が低かったのですよ」。
この船屋形は明治初年、飾磨港付近にあった川御座船から取り外され、高砂市の民家に移築されて茶室として使われていた。1939年に牛尾健治氏(牛尾治朗ウシオ電機会長の父)に所有が移り、神戸市内の邸宅に移築。78年に牛尾家から神戸市に寄付され、現在の相楽園に移った。
明治期に移築する際、1階をかさ上げした上で「次の間」を取り除き、瓦ぶき屋根にするなどの改変を受けた。牛尾家邸に解体して移す際に、当時の文部省の指導のもと詳細な調査と丁寧な復元作業が行われ、現在もその姿を引き継いでいる。
飾り金具の多くに刻まれる「御所車」は榊原家の紋所。この他に姫路藩主だった本多家や松平家、酒井家の紋所の痕跡が確認された。これら紋所の変遷や家屋の建築様式から、この川御座船は1682~1704年、本多家が藩主だった時代に建造されたと推察されている。失われた船体部は推定で全長約27メートル。大名が川で用いた御座船では最大級だったとみられ、現存する唯一のものという。
歴代の姫路藩主も川御座船を、領内を流れる加古川などで巡察や遊興、参勤交代時の渡河などに使った。参勤交代で姫路藩を通過する他藩の大名らにも頻繁に貸し出された。
城付きの特殊組織「御船手組」
運用したのは姫路藩の水軍「御船手組」だ。藩士200人で構成され、18世紀中ごろには海船53隻、川船23隻を擁し、うち8隻が川御座船だったとの記録が残っている。「藩主が交代しても引き続き姫路藩に仕える、『城付き』という特殊な組織でした。操船という専門技能を持っていたためでしょう」。姫路市立城郭研究室の工藤茂博さんが教えてくれた。大阪湾の守りを固めるのが本来の任務だが、石見銀山で採掘した銀の輸送と警護、公儀役人の輸送など、幕府の御用も重要な仕事だったという。
川船の船体は20年余りで修理が必要だとされる。上部構造である船屋形も幾度となく改修を受けたとみられ、調査では少なくとも5回以上、解体・組み立てがされた形跡があった。「飾磨にあった御船手組の役所を描いた絵図をみると、船を収納する覆い屋が立ち並んでいたようです。使用するとき以外は、川御座船などを屋内で保管していたのでしょう」。工藤さんはこう話す。
姫路市では、御船手組の伝統を引き継ごうと、姫路城の堀で使われていた屋形船を再現するプロジェクトが進む。船屋形も視察したという。「和船建造の後継者を育成する狙いもあります」(同市観光交流推進室の柿本英夫さん)。来春、花見のころにお披露目の予定だ。
(文=編集委員 竹内義治、写真=伊藤航)
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