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歴史博士

2012/3/27

歴史博士

海を一望する軍事施設の側面も

塔の頂部を飾っていた相輪の復元模型は3分の1のスケールだが高さ3メートルある

当時は瓦の生産は特殊技術で、同じ木型を用いることは寺と寺との間に極めて深い関係があったことを示すとみられている。海会寺を造営した豪族について、岡さんは「この時期に四天王寺の整備に関わった阿倍氏とする説や、和泉が拠点の大伴氏とする見方、中央の直轄事業だったとの説などがあり、議論が続いています。いずれにせよ造営に携わった豪族と政治の中枢に密接なつながりがあったことが、この瓦から分かります」と話す。

なぜこの場所に、中央政権の肝煎りで寺院が建立されたのか。その背景と目されるのが寺が造成された7世紀中期、大化の改新と呼ばれる一連の政治改革が進む中で、政治基盤を固めるため「畿内」が定められ、官道が整備されたことだ。日本書紀によると畿内の範囲は646年に発せられた「改新の詔」で規定され、海会寺はちょうどその南西隅に位置する。また寺跡がある丘の麓には、難波から紀伊へ通じる幹線道、南海道が通っていた。


【アクセス】JR阪和線「新家」駅から徒歩20分。

「古代寺院の多くで、単なる塀にしては頑丈すぎる柵の跡が見つかっています。日本書紀などには戦闘の際、寺院に立てこもった記録もたびたび登場します。当時、寺院は軍事施設の側面もあったのでしょう」。こう唱えるのは帝塚山大考古学研究所の甲斐弓子・特別研究員。「寺からは海も一望でき、海上からの敵に備えることもできたはず。この地を重視した中央政権が造営したのでは」と主張する。

寺は律令制が終わりを迎えた9世紀ごろ焼失し、廃絶した痕跡があった。16年前、遺跡の傍らに同市埋蔵文化財センターが建てられ、地域の文化財を守る要となっている。

(文=竹内義治、写真=伊藤航)


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