豊臣の盛衰刻んだ大仏の梵鐘
方広寺(京都市) 古きを歩けば(47)
「小さいなあ」。高さ4.2メートル、重さ約83トンの梵鐘(ぼんしょう)に刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」の字を目にした観光客が、思わず声を上げた。豊臣家滅亡を招いたとされる方広寺(京都市)の巨大な鐘と小さな銘文の対比に、時勢の無情が漂う。
■「東大寺」しのぐ規模で秀吉造立
豊臣秀吉がここ京都・東山に、奈良・東大寺をしのぐ大仏と大仏殿を造立したのは慶長元(1596)年。兵火で東大寺の大仏殿が焼失し、大仏が半壊した29年後のことだ。だが、すぐに慶長伏見地震で秀吉の大仏も大破。秀吉の死後、大仏殿まで失火で焼け落ちた。子の秀頼は慶長17(1612)年に大仏殿を再建し、金銅製の大仏を造立するが、8文字の鐘銘が徳川家康への呪詛(じゅそ)だとされる。これが契機となり、大坂の役で3年後、豊臣家は滅びる。
秀吉・秀頼親子が造立に力を注いだ大仏の名残は、今も周辺に残る。同寺には、国重要文化財となっている国家安康の鐘のほか、大きな風鐸(ふうたく)の破片や大仏の眉間にあった仏像など、秀頼の大仏にまつわる品々が伝わっている。寺の東側では13年前、大仏殿の柱跡や大仏の台座跡が発掘で見つかり、公園「大仏殿跡緑地」として整備された。
■大仏よりも大仏殿重視?
大和大路沿いに南北約260メートルにわたって連なる巨石を並べた石垣(石塁、国史跡)は、大仏殿を囲んでいた回廊のもの。中には高さ4メートル、幅5.3メートルの巨大な岩もあり、かつての壮大さをしのばせる。近くの蓮華王院(三十三間堂)の太閤塀と南大門は、秀頼が同院を大仏殿に取り込もうと築いたものだ。
秀吉は全国から巨木を集めて大仏殿を建てた一方、大仏は金銅製とせず、木製漆塗りともしっくい製ともいわれる仕上げで済ませた。そのためか慶長伏見地震の際、大仏殿はほぼ無事だったが、大仏は左手が落ち全身にひびが入ったと記録は伝える。壊れた大仏を前に秀吉は「仏力が柔弱」と嘆き、修理せず撤去させ、代わりに善光寺如来像をここに遷座させた。如来像は当時、武田信玄により信州から甲斐へ移されていたが、秀吉の「夢のお告げ」によって京へと運ばれ、秀吉の死の前日に信州に返されたという。
奈良大の河内将芳教授(中世史)は「秀吉はもともと、大仏より大仏殿を重視していました。権力のシンボルを築くのが狙いで、宗教的な意味は薄かったようです」と考えている。住職は聖護院の門跡が務めたが「他に僧侶がいた様子もなく、普通の寺とは様子が違う」のだという。地震考古学が専門の寒川旭・産業技術総合研究所客員研究員は「この地震では伏見などで大きな被害が出ました。ただ、大仏殿周辺は地盤も比較的安定し、さほど揺れなかったとみられます」と指摘。「大仏だけが損傷したのは、張りぼてで、重心が高く安定が悪かったためでは」と推察する。
発掘調査では、大仏殿建設に先立って10トントラック1万台分の土砂で大掛かりな造成を行った痕跡が見つかっている。傾斜地で巨大建築に適しているとはいえない場所だが、一方で当時の主要街道に面し、京の街のどこからでも見えた。町衆に自らの権威をアピールするのに絶好の立地だったのだろう。
■当時の呼び名は「大仏」
豊臣滅亡後、大仏と大仏殿は「国家安康」の梵鐘ともども、東にある妙法院の管轄となる。大仏殿は二条城と並ぶ京のランドマークとして洛中洛外図などの絵図に頻繁に登場するが、寛政10(1798)年に落雷による火災で大仏と共に焼失。一方、東大寺の大仏・大仏殿は宝永6(1709)年までに再建され、一大観光ブームを起こす。
ちなみに現在は方広寺と呼ばれるが、河内教授によると「この寺名が文献に登場するのは江戸前期以降」。豊臣時代は単に「大仏」または「新大仏」「東山大仏」と呼ばれたという。東大寺の大仏が不在だった時期、「大仏」といえば京のものだったことを示している。善光寺如来が遷座した時期には「善光寺」「善光寺堂」などと呼ばれた。「秀頼が再建する際には『東大寺』とすることを朝廷と検討しています」(河内教授)。
それにしても「家康への呪詛」を刻んだはずの梵鐘を徳川幕府がなぜ残したのか。鐘銘事件が言いがかりにすぎなかった証左とする向きもあるが、河内教授は「大仏再建は秀頼と徳川の共同事業で、徳川もかなりの労力を注ぎました。幕府はこの大仏を"豊臣一色"とは認識せず、東大寺の代わりに重視したことも背景にあるのでは」と話す。
(文=編集委員 竹内義治、写真=尾城徹雄)
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