古都の防火、高低差生かす
本願寺水道(京都市)古きを歩けば(35)
京都市内に「本願寺水道」と呼ばれる水道が残っている。この水道は明治時代後半の1897年、防火用水確保のために作られ、琵琶湖疎水の水を蹴上(東山区)付近で取り込み、東本願寺(下京区)までの市街地約4.6キロに鋳鉄管(直径約30センチ)を埋設して引いていた。老朽化で2008年に停水したが、東本願寺の堀などの水を補うのにも使われ、さらに防火用水のバックアップの役割も担っていた。いまも「地形をうまく利用した画期的な設備」として評価する声が多く、市民らの団体によって毎年1回、水道管が埋設された道をたどる催しが行われている。
動力を頼らずに通水
同水道が評価される一番の理由は、蹴上付近と東本願寺の高低差約50メートルを生かし、ポンプなどの動力に頼らずに水圧だけで通水できたことにある。もともとは本願寺境内に網の目状に張り巡らした配管の先に放水銃や消火栓を設け、バルブを開けば放水銃などから伽藍(がらん)に向けて水が吹き出す仕組みになっていた。また、東本願寺の堀と、途中にある同寺の別邸「渉成園」の池の水を補うのにも用いられていた。
設計者は琵琶湖疎水と同じ田辺朔郎。埋設した鋳鉄管はフランス製で、工事に延べ約26万人が携わった。総工費は14万4303円。「当時の京都府の年間予算の25パーセントに相当する」(東本願寺)といい、この工費を同寺が独力でまかなった。そうまでして水道を引いたのは、同寺は江戸時代だけで4度の大火に遭い、「明治時代に御影堂などを再建するに当たっては、防火設備が欠かせないとの強い思いがあった」(同寺)からだ。
京都駅舎の消火に一役
以後、1979年に境内の消火設備が一新されるまで、防火水道として機能。2008年の停水まで、東本願寺の堀と「渉成園」の池の水を補うのに用いられ続け、親水域の提供に一役かうとともに堀の水は万一の時に防火用水に活用する役割を担っていた。
同水道は過去に1度、威力を発揮している。京都駅舎が1950年に失火で焼けた時、京都市消防局は駅舎の約400メートル北の同寺の堀に消防ホースを引き込み、消防用水を調達したという。
■五条大橋には今も本物の配管
東本願寺の堀の水は現在、地下水をくみ上げて補っているが、「動力のいらない本願寺水道の仕組みはいまもって斬新。京都という町の防災に、同様の仕組みを整備すべきだ」と説く研究者もいる。また、同水道に興味を抱く市民らの任意団体「東本願寺と環境を考える市民プロジェクト」は2005年から毎年1回、啓発活動の一環で同水道が埋設された道をたどるウオーキングイベントを開いており、今年は5月19日に行った。水道管の実物を目にできる場所は限られているが、五条大橋はその数少ないポイントだ。蹴上と東本願寺の経路にある鴨川は水道管を五条大橋につり下げて渡しているので、橋桁を見上げると鋳鉄管がどのようなものかが分かる。
琵琶湖疏水とのつながりも
また、堀に生息する魚から、同寺の堀がかつて本願寺水道と琵琶湖疏水を経由して琵琶湖につながっていたことを知ることができるという。それは外来魚のブラックバスとブルーギルの存在。密放流された形跡はないため、琵琶湖のブラックバスが幼魚や卵の時期に本願寺水道を通って来て育ち、堀で繁殖したとみられている。
ウオーキングイベントに参加した市民から東本願寺に、「水道の経路に新たな消火栓を設けるなどして、従来以上に防災に役立つ形で復活してほしい」といった声も寄せられているという。東本願寺宗務所の蒲池誓さんは「補修費などの課題もあるが、お寺としても本願寺水道の復活の道を探りたいと考えています」と話す。
(文=編集委員 小橋弘之、写真=玉井良幸)
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