龍神伝説にあやどられた清流と洞窟
室生龍穴神社(奈良県宇陀市) 古きを歩けば特別編・水景を愛でる(2)
耳を澄ませば、滝から続く清流の瀬音と、しみいるようなヒグラシの合唱。気温は街中より2、3度低いだろうか。だが、涼しさは体感的なものだけでなく、りんとした雰囲気による部分も大きいと思える。奈良県宇陀市の室生山にある室生龍穴神社の吉祥龍穴と、前面に落ちる滝「招雨瀑(しょううばく)」の前にたたずむと、思わず背筋が伸びる。
■雨乞い神事の記述が「日本紀略」に
龍穴神社は、「女人高野」として知られる室生寺のほど近くにある。8世紀、皇太子だった桓武天皇が病に伏せた際、平癒祈願のため室生の龍穴で祈祷(きとう)が行われたといい、これが吉祥龍穴ではないかとされる。この祈願のあらたかな利益(りやく)から、勅命で創建されたのが室生寺だという。龍穴神社の創建年代は定かでないが、こうした経緯から「龍穴神社の歴史は室生寺より古い可能性がある」(宇陀市教育委員会)。
社の前を流れる室生川は最終的に淀川となって大阪湾に注ぐ。その水源に鎮座する同神社の祭神は雨や雪をつかさどる神として崇敬を集めた。平安時代の歴史書とされる「日本紀略」には9世紀初頭には既に、雨乞い神事が行われたとの記述がみられる。
■静穏な環境求めて龍神が移った?
ただ、ぽっかりと口を空けた吉祥龍穴は「龍神」の住処とされてきた。日本古来の水の神の信仰が大陸文化の影響を受けて変化したとされる。
伝承によるとこの龍神は、元は興福寺(奈良市)近くの猿沢の池に暮らしたが、天皇のお召しがないのを悲観した采女(うねめ)が身を投げたのを嫌い、春日山中に逃れた。ところがここも亡きがらが多く、静穏な環境を求めて室生の地に移った、という。巨大な岩盤上を滑るように流れる清流を見ていると、龍神の気持ちもわかるような気がする。
同神社の本殿と拝殿は、奥拝殿から林道を経たところにある。本殿は17世紀に再建された記録があり、春日若宮社の旧社殿を移したと伝わる。拝殿はこれより少し後、時の将軍徳川綱吉の生母、桂昌院の援助を受け、室生寺の般若堂を移築したとされる。参道は短いが、拝殿前の杉の巨木は樹齢約600年とも言われ、垂直にそそりつつ様子は圧巻だ。
■垂直にそそり立つ樹齢600年の巨木
「杉の幹に耳を当てて、木が水を吸い上げる音を聞いている参拝者も多い」と宮司の神田達也さんは話す。近年はいわゆるパワースポットとして注目され、「パワースポット巡りの観光バスも来る」そうだ。「殊に今年が辰(たつ)年というのも影響しているようです」。由来は不明ながら、境内には天の岩戸と呼ばれる対の巨岩もある。
もっとも龍穴神社は、年間通じて多くの参拝客が押しかけるわけではない。神田さんも常駐はせず、他の神社の宮司を兼務し、平日昼間は別の仕事に就いている。
そんな山里の神社の祭礼などを守り継ぐのは、「宮本」と呼ばれる氏子組織だ。龍穴神社は長年、室生寺の管理下に置かれていたが、明治期の宮司役があまりの衰退ぶりを同寺に訴えた結果、宮本がつくられた。
宮本を構成するのは室生寺が選んだ14人の氏子の家で、役職は世襲で継がれてきた。同寺門前の太鼓橋のふもとにあり、150年近く続く「橋本屋旅館」の前社長、奥本一さんは宮本で上席とされる「奥」という役を継いだ。同旅館は写真家の土門拳が室生寺の四季を撮るため通い詰めたことで知られる。
古老の教えを受け例大祭斎行
奥本さんは「37歳の時に父が亡くなり奥になったが、祭礼の進め方を書き記した文書などなく、古老に教えを請うてかろうじてその年の例大祭を乗り切った」と苦笑する。10月の例大祭も室生寺との関係の深さを色濃く映す。ふだんは閉じたままの同寺の中門を開け、そこで住職が宮本を迎える儀式もあり、奥本さんはその使者役を務めた。
だが、宮本制度の維持はますます大変になっている。例大祭の本宮祭もかつては10月15日で固定されていたが、近年は人手の確保を考え、15日より前の休日に執り行うことに変えた。「神事を中心にして、人事は後回しと思ってやってきたがやむなく変更した」と奥本さんは無念そうだ。
それぞれの家庭の事情もあり、世襲の役職を代々継ぐことは困難を極める。来春には世襲制を改め、氏子の中から公選で選ぶ方式にすることが決まったという。
今後、どのような形で神事を残してゆけるのか。奥本さんは「ある程度略式にはしても、大切な神事をなくすことはできない。要点を引き継ぐべく文書に書き留めている」と思いを語ってくれた。
(文=中川竜、写真=葛西宇一郎、伊藤航)
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