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歴史博士

2012/4/17

歴史博士

「城らしくない城」のわけ

伝本丸跡から下る大石段。メーンの登城ルートと考えられていたが、発掘により途切れていることが分かった

「観音寺城は『城らしくない城』とも呼ばれます」。滋賀県教育委員会の城郭調査担当、仲川靖さんが教えてくれた。防御の要となる曲輪の出入り口(虎口=こぐち)の形状がシンプルなことや、斜面に堀が造られていないことなど、城の守りを固める工夫が乏しいとみられているからだという。「尾根筋から麓まで、数百とも千ともされる曲輪跡が棚田のように重なっているのも、城としては珍しい形です」。なぜこのような姿なのか、構造や築造過程には依然不明な点が多い。

現在、県教委が保存整備に取り組んでおり、2008年から先月末まで4年がかりで石垣の分布を詳しく調査。一部で発掘も行い、土中から石垣が新たに見つかった一方、本丸から下る「大石段」が途中で途切れていることも判明した。「従来は大石段がメーンの登城ルートとみられていたのですが…。登城ルートはどこか、大石段の機能は何かなど、研究課題が増えました」。担当した県教委の松下浩さんは首をひねる。

観音寺城跡が眠る繖山。北西に織田信長が築いた安土城がある

南北朝時代、観音正寺(当時は観音寺)に布陣したのが城の由来とされる。1530~50年ごろ石垣を修築した記録があり、この時期には既に石垣を巡らせてあったとみられているが、当時の状況について研究者の議論が続いている。松下さんは「修験道の行場があり、最盛期には山中に70を超す僧坊が林立していたとされる観音寺の伽藍(がらん)を利用し、寺の既存の石垣を取り込んで最小限の労力で造営したのでは」と考えている。これほど巨大な城を一から築けるほど六角氏に強大な力はなかった、というのが一つの根拠だ。

城跡の中央に位置する観音正寺。西国三十三カ所巡りの札所として今も多くの参詣者を集める

一方、仲川さんは「寺の石垣と城の石垣は違う。繖山のものは、城の石垣として新たに築かれた」とにらむ。本丸跡には六角氏が居館を構えて生活した跡や記録があり、「居住性を優先した城だった」との見方もあるが、仲川さんは「曲輪の配置など、軍事的にも十分強力だった」と主張する。全容解明は緒に就いたばかりだ。

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