華麗に繰り出す「海の大名行列」
大避神社と船祭(兵庫県赤穂市) 古きを歩けば(39)
兵庫県赤穂市の坂越(さこし)湾は中世以降、瀬戸内海を行き交う船の寄港地となり、海路で参勤交代をする西国大名も風待ちに利用した。大避(おおさけ)神社と坂越の海を舞台に、毎秋催される「坂越の船祭」は、海運業で繁栄したかつての坂越の町の様子を今に伝えている。
■日本最古級の船絵馬も
JR坂越駅から千種川を渡って坂越の町へ。江戸時代の会所や酒蔵が残る古い町並みを抜けると坂越湾が眼前に広がる。大避神社は海岸沿いの山の中腹にある。参道を上って振り返れば、小高い境内から青々とした播磨灘が望める。
現在の本殿や拝殿は18世紀に建造された。拝殿の両脇に建つ絵馬堂には帆船を描いた大きな絵馬が何枚も奉納され、所狭しと並ぶ。生浪島堯(いなみじま・たかし)宮司は「明和年間(1764~72年)のものもあり、船を描いた絵馬では最古級です」と説明する。
祭神は秦河勝。聖徳太子に仕えたとされる才人で、太子から仏像を下賜されて広隆寺(京都市)を創建したことや、猿楽の祖とされることで知られる。太子亡き後に蘇我氏に迫害されて坂越に逃れ、一帯の開拓に尽力。大化3(647)年に没すると御霊は神仙と化し、村人が祀(まつ)ったのが神社の創建と伝えられている。坂越湾に浮かぶ生島には河勝の墓所があり、聖地として立ち入りが禁じられている。
■18世紀には祭りの形固まる
神社の名称「大避」について生浪島宮司は「蘇我氏の迫害を逃れ難を避けた、という意味とされます」と説明する。周辺には古くから秦氏が居住していたとの記録が残り、坂越を流れる千種川流域には他の「大避神社」が今も20ほど散在しているという。広隆寺近くには秦氏の氏神とされる「大酒(おおさけ)神社」があり、前後関係ははっきりしないが「もとはこちらも『酒』だったのかもしれません」と生浪島宮司は話す。
神社で毎年10月第2日曜日に催されるのが「船祭」だ。伝統的な木造和船12隻を色鮮やかなのぼりなどで飾り立て、神輿(みこし)を載せて一列に連なり、生島にある御旅所を目指す。こうした船渡御がいつ始まったのか不明だが、古文書から享保11(1726)年にはすでに現在のような形で行われていたとみられる。秦河勝について生浪島宮司は「船や海運と直接関わりはないが、港の町の氏神として、船乗りや漁師たちの信心を広く集めたのでしょう」と話す。
今年も14日、町を挙げての船祭が催された。祭りを取り仕切るのは、氏子から選ばれた頭人(とうにん)たちだ。にぎやかな鼻高(天狗=てんぐ)や獅子舞に続き、直垂(ひたたれ)姿の頭人たちや宮司が神輿とともに海岸へと練り歩く。祭列が海岸に到着すると、乗船するための木板を舷側に架ける「バタカケ」が始まる。ふんどし姿の男たちが長い木板を担ぎ、立てたりよじ登ったり、派手なパフォーマンスを繰り広げる。
■獅子を舞いながら湾岸を一周
出航した船団は、櫂(かい)のこぎ手を乗せた2隻の「櫂伝馬」が先陣となり、以下2隻の船を横に並べて獅子舞を演じる舞台を載せた「獅子船」、頭人を乗せた5隻の「頭人船」、神輿やその担ぎ手を乗せた「楽船」と「神輿船」、舟歌の唄い手を乗せた「歌船」が続く。雅楽を奏で、獅子を舞いながら船団は坂越湾の沿岸をゆったりと一周する。
華麗で勇壮な姿は参勤交代時の大名船団をかたどったとされ、瀬戸内を代表する船祭と呼ばれる。「これだけの数の和船をそろえ、今も動力船を使わない昔ながらの船祭は全国でも珍しい」。祭りを調査した西岡陽子・大阪芸術大教授(民俗学)はこう指摘する。中世に遡るとされる祭礼組織「頭人制」も特徴の1つで、日本の祭礼文化を理解する重要な祭りとしてこのほど国重要無形民俗文化財となった。
江戸期には祭りの際、上方の最新の人形浄瑠璃を子供歌舞伎に仕立て直して上演するなどしたという。「坂越の町衆のかつての経済力と文化度がうかがえます。古い町並みと相まって、とても美しい祭りです」と西岡教授は話す。
ただ、氏子らで組織する大避神社船渡御祭保存会の篠原明会長によると、過疎化や少子化で、頭人や櫂伝馬のこぎ手を減らしたり、男性だけだった獅子舞に女性を加えたり、少しずつ形を変えているという。篠原さんは「先人たちがここまで盛り上げてきた祭りを、我々の代でへたることはできません」と強調している。
(文=編集委員 竹内義治、写真=葛西宇一郎、沢井慎也)
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