西武鉄道、幻の奥多摩開発計画 「第二の箱根に」

秩父でも「箱根や軽井沢のような観光地」目指す

西武秩父駅周辺は観光客でにぎわっていた。駅前には「仲見世通り」があり、弁当や土産物などを販売していた

奥多摩の開発構想とほぼ同時期に、西武鉄道ではもう一つの計画を進めていた。秩父の開発だ。

西武鉄道が秩父線の免許申請を行ったのは1957年。ちょうど小河内ダムが完成した年だ。埼玉県飯能市の吾野駅まで走っていた西武池袋線を秩父まで延伸するという計画は、1961年(昭和36年)に免許が下りる。

ちょうどこの頃、西武鉄道社内では秩父の観光開発について検討を進めていた。この辺りの経緯は、同社の内部文書を検証した論文、「私鉄資本の進出に伴う秩父地方の変容」(淡野明彦、1974年)に詳しい。

秩父鉄道の秩父駅には、西武鉄道の車両が待機していた。開業当初は対立していた両社だが、現在は乗り入れを実現している

淡野論文によると、1966年(昭和41年)、西武鉄道は「秩父線建設計画について」という社内文書を策定。秩父線の目的について、天然資源の開発と同時に「未開発の観光資源を開発する」と明確に打ち出した。実際、1962年(昭和37年)から秩父市内の土地買収を始めたといい、その後10年で100万坪もの土地を取得したという。

1971年には買収した土地の一部を利用して小規模の観光公園、「秩父ファミリーパーク」を開いた。将来的には秩父全体を箱根や軽井沢のような一大観光地にしたいと考えていたらしい。

西武秩父線、軽井沢延伸構想の真相は?

ところで時々話題になる「かつて西武秩父線の軽井沢延伸構想があった」という話は本当なのだろうか。調べたところ、吉野源太郎著「西武事件」(日本経済新聞出版社)に興味深いエピソードがあった。

著者が秩父セメント(現・太平洋セメント)の社長だった諸井虔氏から直接聞いた話として紹介している。諸井氏は秩父鉄道を西武鉄道に買ってもらおうと、当時西武鉄道社長だった仁杉巌氏に持ちかけた。すると仁杉社長は断り、さらには「(堤)義明さんには言わないでほしい」と固く口止めされてしまった。なぜか。

堤義明氏はそのころ、西武秩父線の軽井沢延伸を夢見てヘリコプターでルートを探し回っており、「この話が知れたら飛びついてしまう」。とんでもない不採算事業を抱え込むと警戒しての発言だった、という。

堤氏が想定したルートは次のようなものだった。

西武秩父駅から秩父鉄道に乗り入れた後、寄居駅でJR八高線と接続する。しばらく八高線を走り、高崎駅でJR信越本線に乗り入れれば軽井沢までは目の前、というわけだ。その後、この構想がどうなったかはわからなかった。

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