2011/1/6

歴史博士

細川幽斎(ほそかわ・ゆうさい 1534-1610) 上は三回忌の慶長17年(1612)に夫人の光寿院の指示によって制作されたと見られる幽斎の肖像画「細川幽斎像 田代等甫筆」(永青文庫蔵)

古今集の奥義を伝授された細川幽斎

和歌が大好きで、教養を武将としての生き方に映し出した武田信玄。その信玄と同時代に、歌道を極めるところまで上りつめた武将がいる。細川幽斎である。

幽斎が和歌に目覚めたきっかけは、戦だという。敵将を逃がして落胆したとき、ある武将が“まだ間に合う”という趣旨の古い和歌を引き合いに、あきらめないよう助言。そのおかげで、幽斎は敵をとらえて手柄を上げた。

以来、本格的に和歌を学び、その才能は政治にも生きる。「歌人の三条西実枝(さんじょうにし・さねき)から『古今和歌集』の解釈を伝える奥義『古今伝授(こきんでんじゅ)』を授けられました」(加来さん)。

田辺籠城図  慶長5年(1600)7月、丹後に西軍が侵攻すると、幽斎は田辺城に籠城。幽斎の討死で古今伝授が絶えるのを惜しんだ後陽成天皇の勅使によって停戦、開城となった(永青文庫蔵)

連歌会で、下手な歌を詠んだ秀吉をかばい、気に入られたという逸話もある。幽斎は関ケ原の合戦の直前、徳川家康方についたために居城の丹後田辺城を石田三成に囲まれ、あわや籠城・討ち死にの危機に陥る。この危機を救ったのは教養だった。

古今伝授の断絶を恐れた後陽成天皇の「和歌の奥義を伝える唯一の人物を殺してはならない」との勅命で九死に一生を得たのだ。教養は時に武力以上に身を助けるものだったのだ。

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本記事で掲載した「細川幽斎像 田代等甫筆」や「田辺籠城図」は細川家伝来の歴史資料や美術品を保存・管理している永青文庫美術館(東京・文京)の「没後400年 細川幽斎展」(2011年1月8日(土)~3月13日(日)で展示される。変転極まりない時代を確かな選択眼で生き抜いた幽斎は当代一の歌人、歌学者、古典学者でもあった。文武いずれにも優れた幽斎の生涯がうかがえる。  永青文庫 http://www.eiseibunko.com/

監修・加来耕三(かく・こうぞう)さん
 歴史家・作家 1958年生まれ。奈良大学文学部史学科卒業。豊富な資料をもとに史実の新しい側面を見いだし、旺盛な執筆活動を行っている。『家康が最も恐れた男 直江兼続と関ケ原の義将たち』ほか著書多数。テレビドラマなどの時代考証や番組監修も数多く手掛ける。

(ライター 手代木健)

[日経おとなのOFF2009年12月号の記事を基に再構成]