歴史に名を残すほどの武将は、戦場以外でもキラ星のように輝く特技を持っていた。それぞれの分野で強烈な個性を発揮した武将を、対決形式で紹介する。「歴史を動かした偉人対決」シリーズ第1回は武将の思想が結実した「築城」の名人、加藤清正と藤堂高虎を分析します。

加藤清正は虎をも恐れぬ勇ましさ、藤堂高虎は時勢をにらんで主君を何度も変えたしたたかさ。タイプこそ違えど「武」のイメージが強い2人だが、実はともに築城の名人でもあった。今風にいえば、優れた建築家にして都市計画の名手ということになる。
清正が築城家として頭角を現したのは、朝鮮出兵の前線基地、肥前名護屋城の普請奉行を務めたときだった。その後、朝鮮で苛烈な攻城戦に参加し、攻撃拠点としての城郭(倭城)を築くなどの経験を積む中で、彼の築城技術と設計思想は進化を遂げる。
建築プロデューサー的な加藤清正
その集大成ともいえるのが、日本三名城の一つに数えられる熊本城だ。熊本城はあくまで「戦のため」に作られている。籠城戦を想定した安全弁の数々は象徴的だ。城内には120もの井戸が掘られ、畳には芋茎(ずいき)が編み込まれ、壁には干瓢(かんぴょう)が塗り込まれている。「銀杏城」という別名の通り、敷地にはいちょうの木が植えられてもいる。


「どれも籠城戦に備える非常食です。朝鮮出兵のとき、清正は飢餓に苦しみました。だからこそ、まるでグリム童話のような(笑)、いざとなったら食べられる城を造ったのでしょう。清正には、建築プロデューサー的な一面がありました」(加来さん)。
優美な曲線をたたえた武者返しと呼ばれる石垣も、背景には朝鮮での戦闘経験がある。上に行くほど垂直に近づく石垣に阻まれ、苦闘を強いられたことから、彼の地の工法を学び、実践したという。