東京駅赤レンガ駅舎が復元、丸の内と八重洲はどうなるクリエイティブディレクター 仲原正治

三菱地所がリードする丸の内開発

丸の内地区は、この10年余で大きく様変わりをした。以前から大手町と丸の内は日本最大のビジネス街であり、平日は多くのビジネスマンでにぎわっていた。しかし、土日になると閑散とした街になっていた。ところが近年は全く様相が違う。丸の内には美術館やブランドショップなどが並び、休日に訪れても楽しい街となっている。

景観に配慮して建物低層部の壁面の高さを31mで合わせている丸ビル(右)と新丸ビル。正面は工事中の東京駅(写真:仲原正治、撮影:2011年7月)

三菱地所は1988年、「丸の内再開発計画」(丸の内マンハッタン計画)を発表した。高さ200m級の超高層ビルを60棟建設し、世界有数の国際金融業務機能を備えた地域にするという構想だ。当時はバブル経済の絶頂期で、日本経済がグローバル化し発展することを見越して、日本のビジネス環境を世界有数のものにする構想だった。バブル経済の破綻によってマンハッタン計画は立ち消えとなったが、同じ1988年に大手町・丸の内・有楽町地区再開発計画推進協議会を発足させ、地域の地権者と千代田区が同じテーブルについて開発についての議論を始めることになる。

三菱地所はその頃、横浜の「みなとみらい21地区」で「まちづくり協議会」の発足やまちづくりの基本的な指針である「まちづくり協定」を横浜市や地元と共同で進めてきた。みなとみらい21地区に多くの所有地を持ち、ランドマークタワーの建設(1993年竣工)を進めていたからだ。既に地域と協働して開発を推進することの重要性を認識していた。

1990年ころの皇居前の堀と内堀通り。帝国劇場や明治生命館などの建物の高さは揃っていた(写真:三菱地所)

丸の内の開発では2000年にまちづくりの具体的指針「大手町・丸の内・有楽町地区まちづくりガイドライン」を地域と一緒に策定した。これをベースにして丸の内地区の開発は急速に進んだ。2002年に丸ビル、2004年には丸の内オアゾ(旧国鉄本社等の跡地)、2007年には新丸ビルがオープンした。

三菱地所は、まちづくりを進めるにあたって商業的な要素を入れることを明確に打ち出している。そのため丸ビル、新丸ビルの低層部には商業施設を入れた。また、この建設に先立ち、1999年の年末から両ビルの皇居側にある丸の内仲通りで「東京ミレナリオ」を開催し、この地区の活性化を目で見せるとともに、仲通りに積極的にブランドショップを誘致してきた。こうした戦略によって、丸の内はビジネス街というイメージにプラスして「大人が楽しく集える街」というイメージを作り出すことができた。

2008年には、大手町・丸の内・有楽町地区まちづくり懇談会(1997年設立)が、エリアマネジメントを含めたまちづくりの方向性を示す新しいガイドラインを取りまとめている。ここでは、これまでの業務活動に加えて、多様な都市活動を営む複合的な街へと再構築していくために、地球温暖化対策、水と緑と風等の環境、街の景観、歩行者空間をはじめとする地上・地下のネットワークなどをトータルな視点でとらえながら将来像を検討し、国際的なビジネス、文化と賑わい、情報交流と発信、風格と活力、便利で快適、環境との共生、安全安心、地域等との協力の8つの目標を立ててまちづくりを進めていくことにしている。ビジネスオンリーの街からの脱皮を、文化や地域のコミュニティを育んでいくことから始め、国際的な視野や地球環境まで見据えてまちづくりに生かそうとしている。

八重洲側から丸の内を望む。丸の内地区のビルは31mの高さでスカイラインを形成しており、皇居への圧迫感も少ない。1955年頃に撮影(写真:三菱地所)