東京駅赤レンガ駅舎が復元、丸の内と八重洲はどうなるクリエイティブディレクター 仲原正治

東京駅・赤煉瓦再生への道のり

東京駅の全景(写真:仲原正治、撮影:2012年9月11日)

1914年に完成した東京駅の設計者はコンドルの弟子である辰野金吾だ。日本銀行本店をはじめとする銀行建築を多く手掛けた近代建築の巨匠である。当時の丸の内が煉瓦や石造りであったことを意識して、「ルネサンス様式」の赤煉瓦建造物として設計した。煉瓦は埼玉県深谷市にある日本煉瓦製造(2006年に廃業したホフマン窯の工場)のものを使い、煉瓦の積み方はイギリス積である。

昭和7年ころの東京駅(写真:三菱地所)
煉瓦の積み方の例(資料:赤煉瓦ネットワーク)

1945年5月の空襲で焼夷(しょうい)弾によって火災を引き起こし、鉄骨造の屋根は落ち、内装も大半が失われた。煉瓦の壁やコンクリート床は残ったため、占領軍の要請で再生の突貫工事を行ったが、戦後の混乱期で資材不足などのため、3階建ての一部を2階に変更し、屋根の小屋組を木造にするなどの工夫を重ねた。修復を終えたのは1947年だ。

東京駅の機能が拡大するにつれて、「現在の東京駅では機能が十分に果たせない」という意見が増え、1977年に国鉄は丸の内・八重洲の一帯の土地の再開発を発表した。さらに超高層ビル構想も出され、赤れんがの東京駅の取り壊しが議論された。

一方、取り壊しの議論の中で、「地域の歴史を踏まえ、近代的な遺産を保存活用しろ」という声も徐々に大きくなった。「赤れんがの駅舎を残せ」という保存再生論もマスコミをにぎわした。こうした中で、専門家と関係省庁による東京駅周辺再開発審査委員会(委員長・八十島義之助東京大学名誉教授)が発足。1988年に赤れんが駅舎の形態保全の方針が打ち出された。

この委員会は、国土庁、運輸省、建設省が合同で発足させたものである。その調査報告書(東京駅周辺地区総合整備基本調査、1988年3月)では、「丸の内駅舎(東京駅)は良きにわたり国民に愛着のもたれる記念碑的建造物であり、また、本地区の都市景観を構成するランドマークとして評価されるため、現在地において形態保全を図る方針とし…」となっている。具体化に当たっては、「土地の高度利用との調和については、駅舎の背後に駅舎の形態保全に十分に配慮しながら新たな建物を建築する方法、駅舎の上空の容積率を本地区内の他の敷地に移転する方法等により実施する」としている。

また、この地区の空間構成に関しては、中央駅としての駅機能の向上を図るとともに、首都東京の「顔」にふさわしい風格と魅力を持った地区として整備するために、交通広場の整備を図ることとしている。特に八重洲口の広場は機能している面積が狭いことから、交通処理が円滑に行われておらず、交通流動の増加等を考慮すると、その改善が強く求められていると言及している。

東京駅の復元工事は5年半に及んだが、工事の最中に東日本大震災が発生。石巻市雄勝町で修理していた屋根材の天然スレートの一部が津波で流された。一部を回収して利用したが、足りない分はスペイン産を利用している。