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東京駅赤レンガ駅舎が復元、丸の内と八重洲はどうなる クリエイティブディレクター 仲原正治

2012/10/1

東京駅は鉄道の発祥から約40年たってできた駅である。丸の内・大手町・八重洲という一大オフィス街に勤めたことのある人は買い物や散策をしていてなじみ深いと思うが、筆者にはなじみが薄い。新幹線の起点駅としては利用していたが、周辺のオフィス街にはほとんど行くことがなかったからだ。東京駅の記憶は、1964年に東海道新幹線の試乗会で初めて新幹線に乗りホームで撮影したことと、威風堂々と建つ赤煉瓦(れんが)駅舎の存在である。10月1日に建設当時の姿に復元された東京駅がお披露目されるとのことなので、今回は、丸の内と八重洲といった東京駅周辺のまちづくりを考える。

■東京駅ができる前にオフィス街はあった

東京中央郵便局。改築に当たって建物の前面を残し、背後に超高層ビルを建てた(写真:仲原正治、撮影:2012年9月11日)

江戸時代、江戸城東側の内堀と外堀の間に丸の内があった。当時の丸の内は、主要大名の上屋敷が多くあった場所だ。明治維新後、丸の内地区には兵舎や官庁が置かれていたが、官庁が霞が関地区へ移転することになり、陸軍の兵舎や練兵場だけが残った。

明治政府は、東京の近代化のために1888年(明治21年)に東京市区改正条例を公布し、東京の都市計画の第一歩を示した。翌年には東京市区改正設計案がまとまり、丸の内地区一帯の商業街区計画を発表し、日比谷通り、馬場先通り、永代通り、丸の内仲通りなど道路の骨格を決めた。練兵場などで使われていた丸の内は、民間に払い下げられることになり、1890年(明治23年)に約8万4千坪の土地が三菱に払い下げられた。当時は陸軍等の施設が残った草ぼうぼうの荒野で、「三菱が原」と呼ばれていた。

三菱の岩崎彌之助はこの地区をれんがや石造りのまちにしていきたいと考えた。1877年(明治10年)から日本政府に雇用されていたお雇い外国人の英国人建築家ジョサイア・コンドルに丸の内開発計画を託すことになる。

御茶ノ水駅近くに建つコンドル設計のニコライ堂。正式名は東京復活大聖堂。重要文化財(写真:仲原正治、撮影:2012年9月11日)

コンドルは、滞在中に鹿鳴館(1883年)やニコライ堂(1891年)などを手掛けるとともに、工部大学校造家学科教師として辰野金吾、片山東熊などの建築家を育てた。三菱の建築顧問に就任したのは1890年だ。

コンドルは1894年(明治27年)に三菱最初のオフィスビルである三菱一号館を手掛けた。翌年には三菱二号館、翌々年には三号館を作り、その後も次々にオフィスビルが立ち並んだ。丸の内はイギリス風の街並みとなり、「一丁倫敦(いっちょうろんどん)」と称されるようになる。

1894年創立当時の三菱一号館(写真:三菱地所)
復元した三菱一号館。現在は三菱一号館美術館として活用されている(写真:仲原正治、撮影:2012年9月11日)

これらの建物はほぼ15mの高さに統一されていて、道幅に対して圧迫感のない高さになっている。これもコンドルが指導したものだ。コンドルは多くの建築家を育て、当時の最新の建物を設計してきた。来日4年目には日本人女性と結婚している。また、河鍋暁斎に師事し日本画を学ぶなど、日本の文化や芸術にも造詣が深かった。1920年に永眠するまでの間、43年にわたって日本で生活し、イギリスに帰国したのは一度だけだった。

明治末期の一丁倫敦の風景(写真:三菱地所)
皇居の堀に面している明治生命館。重要文化財(写真:仲原正治、撮影:2012年9月11日)

東京駅開業(1914年)のころになると、鉄筋コンクリート造の建物が作られはじめる。1923年(大正12年)2月には東京駅の皇居側に丸の内ビルヂング(通称:丸ビル)が誕生する。この年の9月1日に関東大震災が起こり、東京は相当なダメージを受けた。震災復興の機運が高まる中、1930年代に入ると東京中央郵便局(1933年)や明治生命館(1934年)など、次々にアメリカ式のオフィスが誕生した。この時代は一丁紐育(いっちょうにゅーよーく)と呼ばれていた。建物の高さを31m(100尺)に統一するなど、都市景観も含めたまちづくりに対する姿勢を明確に打ち出している。

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