2012/1/27

東京ふしぎ探検隊

東京五輪前に「外国人にもわかりやすい住所」

町名がなくなった神田多町1丁目の町名由来板

それにしても乱暴にも思えるこの住居表示法が、なぜ推進されたのか? そこには日本の住所を巡る歴史的な経緯があった。

「日本の住所が地番を使用していたことが、そもそもの問題なんです」。『住所と地名の大研究』などの著者で地図研究家の今尾恵介さんは指摘する。地番とは、土地の所有権を示す番号。不動産取引に使うので、住宅のチラシなどで目にすることが多い。ただし地番は開発のたびに新たな番号が振られてどんどん複雑になるうえ、番号の振り方にも規則性がない。欧米では混乱を避けるため、地番と住所は分けるのが一般的だ。

しかし日本では、明治期の地租改正で付けた地番をそのまま住所として運用した。東京では神田神保町で関東大震災の後に大規模な地番整理を行うなど何度か対策をとったが、それでも都市化の進展に伴いわかりにくさは増すばかり。1968年(昭和43年)に郵便番号が導入されるまでは、郵便物の配達にも支障が出ていた。

多町大通りは神田駅西口から旧神田多町1丁目を通り、神田多町2丁目へと続いている

契機となったのは1964年(昭和39年)の東京オリンピック。外国人にもわかりやすい住所をと政府主導で策定したのが住居表示法だった。

わかりやすさを追求しただけあって、住居表示法にはいくつかのルールがある。しかしこのルールが地域の事情にあわないケースが続出した。

例えば住所の付け方。パリやロンドンでは道路を基本に住所を割り振る例が多い。「○○通り×番地」という風に。これに対し日本の住居表示法では、ブロックごとに住所を割り振った。これが多くの町を混乱させた。なぜか。

「道路を町の境界としたことによって、同じ商店街で向かい合っているのに違う町に分断されるケースが相次いだのです」(今尾さん)。祭りや防犯、ゴミ出しなどコミュニティーの単位となる町が分断されてしまうことが反発を呼んだ。

有楽町は「有楽」になる予定だった?

波紋を広げた住居表示法の適用。反対運動は全国各地で起こり、「1丁目がない町」を生んだ。

実は、有楽町でも地名変更の危機があった。1966年(昭和41年)、千代田区から町名を「有楽」にすべし、と提示されたのだ。

「有楽町ビルヂング」は「有楽ビルヂング」になっていたかもしれない

その理由は、住居表示法の実施基準にある。「『丁目』を付ける場合は『町』を外す」――。この原則が多くの町で機械的に適用された。有楽町1丁目は有楽1丁目に変更を求められたのだ。これに対して多くの人や企業が反発。1957年(昭和32年)にフランク永井の「有楽町で逢いましょう」がヒットしたことで有楽町は全国区のブランドとなっていただけに反対運動が盛り上がり、千代田区は提案を撤回。この「事件」のあと、「町」を残して住居表示法を実施する特例が認められるようになったという。

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正式な住所が「上町A」のナゾ