悲劇の都営三田線 大手町駅が「大手町」にない理由

「悲劇の路線」 直通にらみレール幅を変更したものの…

三田線はもともと東西線の支線として計画された(「都営地下鉄建設史」より)

大手町駅だけではない。三田線は譲歩、譲歩の連続で、時に「悲劇の路線」ともいわれる。どこを走るか、どの私鉄路線と直通運転を行うのか、二転三転したのだ。

6号線と呼ばれていた三田線は、5号線(現・東西線)の支線として浮上した。大手町駅から分岐して、神保町、白山、巣鴨を通り、板橋に向かうルートだ。

62年、これを6号線として独立させることが決まり、1号線(現・浅草線)と同じレール幅(1435ミリ)が採用された。転機はその直後。北は東武東上線、南は東急池上線に乗り入れることになり、レール幅を両社に合わせて1067ミリに変更したのだ。都交通局がまとめた「都営地下鉄建設史―1号線―」は直通について、「両社から要請があった」としている。

東急は「多摩田園都市開発35年の記録」で率直にこう記す。

「当社がこの路線に注目したのは、桐が谷(品川区西五反田)で池上線と結び、同時に旗の台(品川区旗の台)付近で大井町線と池上線の線路を接続すれば、懸案となっている大井町線延長線すなわち田園都市線の建設にともなう都心乗り入れ問題が解決できると踏んだためである」

東京都と東急、三田線の工事巡り対立

しかし、計画はすんなりとは進まなかった。

問題となったのは、1号線(浅草線)と6号線(三田線)が並走する「泉岳寺(港区高輪)~桐ケ谷」間の工事だった。同区間は1号線は都、6号線は東急が工事を担当することになっていたが、同一区間のため同時に工事を行う必要があった。両者とも直通には合意したものの、建設時期を巡って考えが違っていた。

6号線(三田線)は桐ケ谷駅で東急線に乗り入れる予定だった(「都営地下鉄建設史」より)

都としては、とにかく1号線を早く開通させたい。そのため6号線ともども、工事を急ぎたかった。これに対して東急は、周辺開発などが進んでいない段階での6号線建設に及び腰だった。結果的に、1号線も含めて工事はなるべく遅らせたかった。

どちらに責任があるのか。両者の言い分は少し異なる。東急が80年に発行した「新玉川線建設史」にはこうある。

「当社にしてみれば、当初から早期着工の見通しの付かない立場にあった」「結局、東京都はこの桐ケ谷~泉岳寺間における両線工事の同時施行を取りやめ、昭和40年2月15日付で、1号線単独施工による早期着工を当社に通告したのち、翌昭和41年6月には同区間工事に着手した」

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