梅雨が変えた戦国の歴史 「信長戦記」に新たな視点

決戦場でプレハブ工法?

信長は兵1人に柵木1本と縄1束を携行するよう命じ、現地では短期間で大規模な「馬防柵」を組ませたという。桐野氏は「現代のプレハブ工法みたいなもの」と例える。さらに現地調査では空堀や土塁など大規模な「陣城普請」を施していたことが分かってきた。防御用のインフラ整備を行ったわけだ。可能な限りの鉄砲を戦場に集めて集中的に運用したこととあわせて桐野氏は昨年出版した「織田信長」(新人物往来社)で「一種の軍事革命」と称賛している。

実際、現地には自衛隊関係者の見学が今も続いているという。設楽原歴史資料館は2001年に陸上自衛隊豊川駐屯地との共同研究を試みた。戦場の配置図を見た同駐屯地の幹部は防御が強固な信長本陣と比べ、家康陣は危険でいたくない場所と感想を述べたそうだ。家康が救援を受けた立場であるにせよ、信長・家康の力関係をうかがわせる。さらに北方に布陣しほとんど活躍が伝わらなかった羽柴(豊臣)秀吉が実は重要なキーマンだった。武田軍が迂回して信長を攻めないよう急所のポイントを占めていると指摘したという。

梅雨を利用した秀吉

その秀吉が天候の利用や戦場でのインフラ整備などのノウハウを受け継いだのかもしれない。長篠合戦の7年後の高松城(岡山県)で秀吉は「水攻め」を実践した。長さ約4キロメートルもの築堤を行って高松城を人工湖の中に閉じ込め、毛利本軍をくぎ付けにした。この戦場に信長の救援を依頼したことが、6月2日の本能寺の変の伏線につながった。現代では7月1日にあたる。変の真相は明智光秀遺恨説から朝廷、公家陰謀説まで未だ結論がみえない。

光秀と秀吉が戦った同月13日の山崎の戦いは、当時の公家の日記では雨だったという。鉄砲が使えないのは「人数的に劣勢だった明智軍に不利だっただろう」(桐野氏)。秀吉は天正11年の柴田勝家との織田政権後継争いでも北ノ庄(福井市)の柴田軍が雪などで出動しにくい冬季を狙って近畿・中部で作戦を開始した。信長・秀吉の戦歴は四季をうまく戦力に組みこむ者が天下統一の資格を得たことを示している。

梅雨はジメジメして活動しにくく停滞したムードに覆われがちだ。しかしこの季節は近世に入っても日中戦争の勃発などの事件が起きている。内外とも大きなニュースが続くなか、今年も歴史の転換期を迎えているのだろうか。

(電子整理部 松本治人)

<梅雨将軍信長>
織田信長と梅雨との関係を描いた直木賞作家・新田次郎氏の歴史小説「梅雨将軍信長」(新潮社)には現在の気象予報士に当たる平手左京亮というキャラクターが登場する。気象庁勤務だった作者のキャリアを生かしつつ梅雨の天候を利用する信長の合戦模様を描いた異色作。ただ「現実には織田家に天気を予想する役職はなかった」(金子助教)。「梅雨」の言葉自体は江戸期以降に使われるようになったという。
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