梅雨が変えた戦国の歴史 「信長戦記」に新たな視点

3千挺3段撃ちはフィクションか

火縄銃3段撃ちの実証実験(新城市設楽原歴史資料館)

15年後の長篠の合戦(天正3年)は織田・徳川連合軍約3万8千と武田勝頼軍約1万5千が激突。連合軍が勝利し、信長の天下統一が確実視されるようになった戦いだ。しかし「武田の騎馬隊対織田・徳川鉄砲隊という単純な図式ではない」と藤本氏は強調する。戦場で3千挺(ちょう)の鉄砲が1千ずつ3段構えの連続射撃で武田軍を破ったというのが従来の解釈。これだと鉄砲足軽の隊列が2メートル間隔としても約2キロの長大な列となってしまう。「現実に1人の指揮で統一した一斉射撃は不可能」(藤本氏)との考えは研究者間で一致している。

ただ武田軍の名将といわれた山県昌景を狙撃で戦死させるなど鉄砲隊が活躍したのは間違いない。地元にある「新城市設楽原歴史資料館」の小林芳春・研究専門委員らは、毎年7月に火縄銃を使った連続射撃の実験を続けている。ほぼ同一メンバーでの3人1組の動きを、発射終了までカメラ撮影しデータ分析。これまでの結果は射撃間隔が15秒程度で実戦でも十分対応できるようだ。1人の射撃手に助手が2人付いて交代で準備した銃を渡していく分業法での連続射撃も始めている。長篠の戦いでは織田軍に前田利家ら5人の鉄砲奉行が派遣されていた。50~100人の鉄砲チームが分散し、戦場の各方面で連続射撃が威力を発揮したのかもしれない。この合戦で山県や馬場信房ら司令官・将校クラスが数十人も戦死したことで、7年後の滅亡まで武田軍は質的に立ち直れなかった。一方、連合軍側は別動隊の1人だけだったという。

梅雨明けを待った戦略家信長?

むしろ戦略家としての信長に再評価が集まっている。史料などで確認はできないものの設楽原歴史資料館の湯浅大司主任研究員は「わざと決戦日を遅らせて梅雨明けを待ったのではないか」と推測する。

徳川家康の救援依頼を受けて本拠地の岐阜を出発したのが5月13日。家康の待つ岡崎には14日に到着したがその後進軍ペースを落とした。主戦場に本陣を置いたのは18日、戦いは21日早朝からだ。現在の7月9日にあたり「例年の梅雨明けに近い」(湯浅氏)。地元の年配の人々は「今日でも雲の流れや風の方向で翌日の天気を予想している」(湯浅氏)。そうした現地情報を参考にして決戦のタイミングを決めたのかもしれない。雨の日にあまり鉄砲は使えなくなる。桐野氏も「鉄砲が普及してから従来に増して天候が重要な要素になっていた」という。

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