「南多摩まで移管する必要はなかった」 神奈川県が指摘
三多摩の東京移管は水源の管理が理由とする東京都の説明に対し、「神奈川県史」はこう反論する。
「これらの理由は東京府市部の行政上の説明としては一応筋が通っているが、これが通るのは西・北多摩郡のみである。南多摩郡の移管理由には東京府の行政上の要請は全くなかった」
玉川上水の水源は西・北多摩郡にあった。南多摩郡まで移管する必要はなかったではないか、との主張だ。南多摩郡とは、現在の町田市、八王子市、多摩市、稲城市、日野市のことだ。
さらには水源問題を理由にした多摩地区の東京への移管要請はコレラ発生以前からあり、何度も政府が退けてきたこと。そのときでさえ、南多摩地区は除外されてきたことなどを指摘し、南多摩も含めた移管は水源問題よりも別の政治的思惑が大きかった、と結論づけている。
多摩で隆盛の自由党を「切り離す」 神奈川県知事の思惑
ではこの「政治的思惑」とは何か。そこで登場するのが当時の神奈川県知事、内海(うつみ)忠勝だ。
1892年(明治25年)、第2回となる衆議院選挙が行われた。神奈川県に属していた三多摩では当時、板垣退助らが設立した自由党の勢力が強く、選挙では2議席を独占した。板垣が「多摩は自由党の砦(とりで)」と表現するほど、多摩では自由党が支持を集めていた。
この選挙で内海知事は自由党に圧力をかけたといわれ、多摩の自由党は猛烈に反発。県議会に対し内海知事の罷免を要求した。
「神奈川県史」によると、県議会で多摩出身の自由党議員に手を焼いた内海知事は政府に対して三多摩の移管を強く要請した。東京府では自由党の勢力は弱く、移管によって影響力をそぐことができるとの判断だった。当時の知事は政府が任命しており、反権力色の強い自由党に対しては否定的だったようだ。
これに対し東京府知事は当初、西多摩と北多摩のみの移管を政府に上申していた。しかし内海知事は東京府に宛てた書簡の中で、歴史的に三多摩はつながりが深いため、南多摩を切り離すことは民意に背く、と主張したという。この意見を受け、東京府は南多摩を含めた移管へとシフトしていく。