若者の街シブヤは「おとなの街」になれるかクリエイティブ・ディレクター 仲原正治

若者の持つ「エネルギー」を「スポーツ」と結びつけ、渋谷の「若者・ファッション・音楽・文化・国際性」というコンセプトを表現できるものとして「バスケットボール」を選んだ。国立代々木競技場第二体育館が日本のバスケットボールの聖地となっており、そこに通じる道ということも理由となっている。

渋谷センター街の渋谷駅側の入り口。バスケットボールストリートの横断幕が掲載されていた
通りのバナーにもバスケット ボールストリートの表示がある

通りの名前は難しい。西武や東急が名付けた公園通り、スペイン通り(坂)、文化村通りなどは、企業の努力があり、若者にとってもなじみやすくイメージの良い名前なので定着している。しかし、「バスケットボールストリート」という名前は、そう簡単にはなじめないだろう。現在も道路上にバナーなどで、「バスケットボールストリート」というロゴを入れているが、「バスケ通り」など簡略化した名前の方がなじみやすいと思う。

富山県入善町にある「発電所美術館」は、オープン当初「下山(にざやま)芸術の森」という名前であった。しかし、地元では発電所を活用した美術館なので、発電所美術館と呼ばれていた。結局、それが定着し、正式名称になった。地元や来街者に愛される名前にしないとなかなか定着はしないのである。

昔、JRは「国電」の代わりに「E電」という名前を付けたが、誰にも見向きもされずに、消えていった。「センター街」という名前のイメージが悪いというのであれば、名前を変えるよりもイメージ戦略をもっと徹底して、まちづくりを進める方が良いのでないかと思う。現在の「センター街」は街があまりにごちゃごちゃしている。中年の筆者にはNHKなどに行くときに通過するだけで、センター街で用事を足すということはほとんどない。

道玄坂を上ると、円山町がある。ここは昔、花街(遊郭)のあったところだ。円山町は、江戸時代の大山街道の宿場町であったが、明治以降に急速に花街へと変わった地域で、特に代々木の練兵場ができると、料亭や芸子置屋(おきや)が増え、将校を中心に遊びに来るようになり栄えていった。大正期には置屋は100を超え、芸子も400人にのぼっていた。1970年代ころまでは、料亭文化も栄えており、企業や政治家、国の役人などの接待で利用されていた。しかし、1980年代になると、街の雰囲気が少しずつ変わり、ラブホテルやファッションヘルスという現代的な風俗産業が次々に進出してくるようになる。現在は、いくつかの料亭があるだけで、当時の名残は、ほとんど残っていない。

円山町付近はラブホテルが建ち並ぶ街になっている
昔の料亭の雰囲気が残る家屋

防災には無防備な渋谷

渋谷という街を改めて振り返ってみると、現在の渋谷が持つ“若者の街”というイメージを作ってきたのは、道玄坂、公園通りを中心とした地域であることがわかる。ヒカリエがオープンした宮益坂方面は、今の渋谷文化とは違った地域になっている。渋谷駅が地形的に「谷」にあるため、道玄坂と宮益坂とが渋谷駅で分断されているのが大きな原因だ。宮益坂を上ると青山通りで、その先には表参道があり、その表参道の雰囲気の一部がこの地域にまで浸み出してきている。そのため、ヒカリエの建設地に以前建っていた東急文化会館も、渋谷駅の目の前だったが、孤立していた感が強い。

谷の底に当たる部分に駅がある渋谷の地形は、災害などには弱いのではないかと思う。渋谷駅の複雑な構造については、本シリーズの1回目の昭和女子大学の田村圭介准教授の「渋谷駅は一日にして成らず」で詳しく述べられているが、私は、たまたま大きな事故がなかっただけだと思っている。渋谷駅の複雑な導線は、初めての人には分かりにくく、つぎはぎでできた地域(駅)が防災上、問題を抱えていることは間違いない。都市計画という視点が希薄な渋谷には、建物をつくる際に、公開空地をつくるという考え方は、ほとんど存在しなかった。そのためか駅周辺に空地は見当たらない。

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