

渋谷という地名は、1092年ころに渋谷氏の祖である河崎基家が金王八幡宮を創建したことに端を発する。基家の子である重家の代に堀河天皇から渋谷姓を給わり、渋谷という地名が定着したようだ。
江戸時代は、江戸城から離れていたこともあって、あまり歴史の表舞台には登場しない。1883年(明治16年)に私鉄の日本鉄道が上野―熊谷間を開通させ、当時は田舎で建設がしやすかった新宿方面に、赤羽から路線を延伸した。山手線渋谷駅が誕生するのは1885年である。その後、1905年に世田谷区に陸軍の兵営ができ、代々木に練兵場ができると、渋谷は軍人の往来で栄えるようになった。
■渋谷村から東急村へ
一方、東急線の関係では、1907年(明治40年)に玉電(東急玉川線)が開通。1927年(昭和2年)には東横電鉄が渋谷―神奈川間を開通させ、1932年には桜木町駅まで延伸した。1934年に井の頭線の渋谷―吉祥寺間が全線開通し、1939年には地下鉄銀座線の渋谷―浅草間が全線開通した。ターミナルとしての渋谷駅の基本的な交通網は、この時にできあがったわけだ。
当時の東急の代表者である五島慶太は、小田急線、京王線、京浜急行線、相模鉄道線などを次々に買収し、大東急時代を築いた。彼は渋谷駅を中心に、鉄道事業と並行して開発事業を展開し、1934年には東横百貨店(現・東急百貨店東横店)を開店させる。ターミナル駅にデパートを作り、人を呼びこむというノウハウは阪急の梅田店を見習ったものだ。また、沿線の住宅開発を進めるとともに、慶応大学に日吉台にあった約7万2000坪の土地を無償提供した。慶応大学日吉キャンパスの開校も1934年であった。

沿線の住民が渋谷に通い、渋谷からも学生が日吉へ通う―。これは、往復で乗降客を増やす努力と言える。こうした鉄道路線と沿線住宅の同時開発の手法は、最近まで田園都市線の沿線で行われていた。「多摩田園都市開発」である。たまプラーザ駅、青葉台駅付近には、次々に高級住宅地が造成され、今や最もイメージの良い住宅地の一つになっている。
戦後になると、独占禁止法や財閥解体に伴って、新宿発の京王、小田急などの私鉄は独立することになる。しかし、渋谷駅周辺の路線は東急グループが握った。現在も東京急行鉄道は東急東横線のほか、目黒線(旧:目蒲線の一部)、田園都市線、大井町線、池上線、東急多摩川線(旧:目蒲線の一部)、こどもの国線、世田谷線を管理・運営している。これらの路線の沿線住宅も含めた開発を進めることで、戦後も渋谷の街は活性化していくのである。
東急と西武のせめぎあいで渋谷文化が花咲く
渋谷の文化的な動きとしては、1956年(昭和31年)に東急文化会館が設けられたのが始まりだ。この東急文化会館にプラネタリウムがあり、多くの小中学校が団体で課外授業に訪れることになる。筆者もプラネタリウムに最初に訪れたのは小学校の課外授業だった。