2011/10/21

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「水の都」だった銀座地区

かつて京橋川にかかっていた「京橋」の親柱。高速道路の下に今も残る

東京駅から銀座、築地に至るエリアは、かつて川に囲まれた「水の都」だった。ほんの少し歩くだけで川に突き当たる。川は人々の暮らしとともにあった。

三島由紀夫が1956年に発表した「橋づくし」という短編小説がある。中秋の名月の夜に4人の女性が願掛けしながら銀座にかかる7つの橋を渡る、という物語だ。現在の中央区役所の前にある三吉橋から、築地本願寺前にある備前橋までが舞台となっている。川は幾多の物語を生んできた。

「古き良き東京」を思わせる川の風景だが、実はほとんどが人工的に造られたものだった。その歴史をさかのぼっていくと、1人の歴史的人物に突き当たる。徳川家康だ。

汐留川にかかっていた「新橋」の親柱には、橋の名前が刻まれている

豊臣秀吉の命を受け、家康が江戸城に入ったのは1590年。当時、江戸城の間近まで海岸線が迫り、周囲は湿地帯だったという。家康はまず「道三堀」と「日本橋川」を掘って行徳(現・千葉県市川市)にあった塩田への航路を確保。現在の日比谷周辺に広がる「日比谷入江」を埋め立て、外濠川を掘り、八町堀を造った。江戸の街はこうした大規模な造成工事によって生まれたのだ(鈴木理生「江戸・東京の地理と地名」日本実業出版社)。

「江戸の川はそのほとんどが、運河としての役割を果たしていました」。「川跡からたどる江戸・東京案内」などの著書がある中央区立京橋図書館の菅原健二さんはこう指摘する。徳川幕府は水運のために川を掘り、全国の物資が流通する仕組みをつくった。繁栄をもたらした運河だったが、それは「水運が廃れたとき、人工的に造成された運河は役割を終える」ことの裏返しでもある。鉄道貨物が発達してきた大正時代になると、その傾向が顕著になる。

永井荷風の日記「断腸亭日乗」に興味深い記述がある。「窓を開きて欄干にもたれるに、築地川濁水の臭気甚し。今や市内河川の水にして悪臭を放たざるはなし」。1921年5月の記述だ。既にこのころ、水路としての役割を終えつつあったことをうかがわせる。

震災や戦災がれきの埋め立て場所に

東京の川が造成から埋め立てへと急転回したのは大正時代。1923年(大正12年)の関東大震災で発生した大量のがれきの処分先として、入船川などが埋め立てられた。

かつて築地川にかかっていた「備前橋」の欄干。現在は築地川公園内にある

戦後になるとこの流れが加速する。1947年から1960年にかけて、外濠川や三十間堀川、京橋川が戦災がれきの処分先として埋め立てられた。外濠川にかかっていた呉服橋や鍛冶橋、数寄屋橋は交差点名としてその名が残った。

東京の川にとどめを刺したのが東京オリンピック。高速道路の整備計画で、真っ先にあがったのが川の埋め立てだった。川は公共用地であるため、複雑な権利関係が発生しない。京橋川や築地川、楓(かえで)川や汐留川は次々と道路に姿を変えていった。高架下に西銀座デパートや有楽フードセンター(現・銀座インズ)が生まれたのもこのころだ。京橋図書館の菅原さんは「歴史的に見れば水運が陸運に代わり、それに伴って川が役目を終えたとも言えますが、ちょっと寂しい気もしますね」としみじみ語る。

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