相鉄本線の西谷駅。手前には工事用の資材が見える。上を走るのは東海道新幹線東京・渋谷駅で地下鉄副都心線との相互直通運転を予定している東急東横線。実は路線の南側でも新たな直通運転の計画が進んでいる。順調にいけば2019年にも、渋谷駅から日吉、新横浜駅を経て相鉄線とつながるという。相鉄はJRにも乗り入れする予定だ。ますます広がる首都圏の直通運転。その歴史と功罪を探った。
■相鉄がJR湘南新宿ライン、東急東横線と直通に
横浜駅から電車で西に15分ほどの場所にある相鉄本線西谷(にしや)駅(横浜市保土ケ谷区)。東海道新幹線が走り抜ける高架の下で、鉄道路線の新設工事が行われていた。近く、トンネルの工事も始まるという。どんな路線ができるのか。相鉄に聞いてみた。
「西谷駅からJR湘南新宿ライン、東急東横線に相鉄線が乗り入れるための路線です。東京都心部への乗り入れがない相鉄にとっては、悲願でもあります」。相模鉄道プロジェクト推進部の清水正勝係長は力を込める。
計画によると、相鉄本線は西谷駅で都心に向けて分岐する。そこからJR東海道貨物線の横浜羽沢(はざわ)駅(神奈川区)にかけて、新たに地下を通る線路を設置する。新設する羽沢駅(仮称)から先は地上に出て東海道貨物線に乗り入れ、武蔵小杉駅のあたりで横須賀線に分岐し、さらには湘南新宿ラインへとつながっていく。
「既存の線路を利用することで、工事費を大幅に圧縮できた」と清水係長。西谷駅から羽沢までの新路線は2015年に開通の予定だ。
東急との直通運転は、JR線への乗り入れ後に行う。西谷駅から羽沢までの新路線を、さらに日吉駅まで延ばす計画だ。今のところ、新横浜と新綱島(ともに仮称)に途中駅を設け、日吉から先は東急東横線・目黒線と直結する見込み。いずれも地下を通る。
新横浜では東海道新幹線、横浜市営地下鉄と乗り換えができるようになる。新設する新綱島駅は東横線綱島駅から少し離れた場所を検討中。東急との直通は2019年を予定している。
新線が開通すれば、相鉄の二俣川駅からJR新宿駅までの所要時間は現在より15分短い44分、東急渋谷駅から新横浜駅までは11分短い30分となる。相鉄利用者の約6割が都心部に通勤しているといい、格段に便利になりそうだ。東急線利用者にとっては、新横浜へのアクセスが大きく向上する。
■ターミナル駅の混雑が直通運転を生んだ
京成電鉄の車両。中央は「赤電」と呼ばれ、都営浅草線への乗り入れを機に製作された。右は70年代の「青電」、左は80~90年代の「ファイアーオレンジ」(2009年、同社創立100周年を記念して過去の塗装を再現)相互乗り入れが広がる首都圏の鉄道網。地下鉄だけを見ても、東京メトロ9路線、都営地下鉄4路線のうち、JRや私鉄との直通運転を行っていないのは銀座線、丸ノ内線、大江戸線のみ。なぜ、直通運転がここまで広がったのか? 国土交通省交通政策審議会の鉄道部会長などを歴任した政策研究大学院大学政策研究センター所長、森地茂特別教授に事情を聞いた。
「直通運転が広がった1960年代、東京のターミナル駅は混雑がひどく、危険な状態でした。直通運転になれば乗り換えが不要となり、駅の混乱が回避できる。駅員や車両の運用にも余裕ができる。郊外を走る私鉄にとっては、都心への乗り入れで大幅に利便性が増す。郊外に多くの人が暮らす現在の東京圏は、直通運転が生み出したといってもいいでしょう」
私鉄と地下鉄との直通運転第1号は、1960年(昭和35年)、都営浅草線と京成線だった。京成電鉄は浅草線に乗り入れるため、80キロ以上にわたってレール幅を広げる大工事を行った。そこまでしても、都心への乗り入れを実現したかったのだ。
京成線が浅草線とつながった2年後の1962年(昭和37年)に日比谷線との乗り入れを実現した東武鉄道は、社史「東武鉄道百年史」にこう記す。「都心乗り入れは、当社の夢であり、長年の悲願だった」――。この言葉の裏側には、官と民との激しいせめぎ合いがあった。
1950年代、私鉄各社は都心部への延伸を狙っていた。しかし、延伸計画を運輸省に申請しても、ことごとく却下されてしまう。東武の社史は「私鉄が山手線の内側に入るには大きな壁があった」と述懐する。当時はまだ、民間は郊外のみで、都心部は官が整備するとの考え方が根強かったようだ。
流れが変わったのは1955年(昭和30年)。運輸省がこの年に設置した都市交通審議会が、相互直通運転の考え方を打ち出したのだ。翌1956年(昭和31年)には第1次答申をまとめ、各社に直通運転を促した。背景にあったのは、私鉄各社の激しい通勤ラッシュとターミナル駅の混雑だ。以後、都心部の地下鉄路線は計画段階から直通運転を前提とするようになった。官が主導して地下鉄と私鉄との「縁組」を決めていった。
■大阪ではなぜ、直通運転が少ないのか?
1960年代以降、首都圏の鉄道各社は次々と直通運転を広げていった。今では都営浅草線に5社の車両が乗り入れるなど、ますます便利かつ複雑になっている。これに対し、関西では直通運転はあまり広がっていない。現在、大阪市営地下鉄が直通運転を実施しているのは3社だけだ。東西の違いはどこからくるのか?
森地特別教授はこんな見方を披露する。「東京と大阪では混み方が違う、というのがまずあります。直通運転の必要性が東京ほどではなかったのでしょう。それに大阪は私鉄各社の独立志向が強い。都心部への乗り入れは官(大阪市)に頼るのではなく、自分たちの手でやればいい、と考えたのではないでしょうか」
■直通運転で悪化した車両の混雑
都心と郊外との直通運転は、メリットばかりではない。
「東京の鉄道神話は崩れ去った」。森地教授はこのところの車両運行に厳しい見方を示す。世界に誇ってきた緻密で正確な運行が、直通運転をきっかけに失われてしまった、という。
森地教授によると、混雑には4つの種類がある。車内、ターミナル、車両、そして踏切だ。直通運転によって車内とターミナルの混雑はある程度緩和したが、車両の混雑がかえって悪化してしまったという。
東急田園都市線は地下鉄半蔵門線、東武伊勢崎線と相互乗り入れをしている例えば東武伊勢崎線と直通運転を実施している東急田園都市線では、ラッシュ時の遅延が常態化している。東武線内での遅れが波及し、列車が数珠つなぎになってしまうのだ。もちろん、東急線内の遅れも東武線に波及していく。
森地教授は「密接に絡み合う鉄道網と頻繁にやってくる電車、そして直通運転と、これまで世界に誇ってきた3つの要素が、一転してマイナスの側面を見せている。首都圏が高密度につながったことで、わずかな遅れであってもネットワーク全体に広がってしまい、解消に時間がかかるようになった」と指摘する。先の例でいえば、東武伊勢崎線内で発生した遅れが東急田園都市線に波及し、迂回ルートである東急大井町線、東横線に乗客が流れ、これらの路線まで混雑の影響で遅れてしまう、といったケースだ。森地教授は「負の連鎖を断ち切るには、思い切った間引き運転など、これまでの常識にとらわれない運行管理が必要なのでは」と訴える。
■「小田急線内を走らない小田急の車両」のナゾ
ところで、直通運転が始まってから、都心部では奇妙な現象が起きている。自社の路線を全く走らない車両が増えているのだ。
試しに東京・大手町の千代田線ホームでしばらく車両を眺めてみた。すると、小田急の車両なのに行き先が千代田線止まりの車両があった。別の路線でも同じだ。どうしてこんなことが起こるのか。
その答えは「東京地下鉄道千代田線建設史」に書いてあった。そこには直通運転のこんな契約が載っている。「それぞれの車両の相手線内の走行キロが、極力接近するように定める」――。この協定が、車両管理をややこしくしているのだ。
地下鉄千代田線への乗り入れ用などで活躍した小田急電鉄の「9000形」車両。2006年に引退した
実は直通運転を行う際、各社は走行距離に応じてお互いに車両の利用料金を払っている。例えば千代田線内を小田急の車両が走った場合、東京メトロは小田急に車両使用料を払う。車両の走行距離が均等になれば料金も相殺できるため、他社の路線内を走らせることで距離を調整する手法が広がったようだ。ある私鉄大手の担当者は「乗り入れ先が3社以上になると、車両のやりくりがかなり複雑になる」と漏らす。このあたりのからくりは、所沢秀樹「鉄道会社はややこしい」(光文社)にも詳しい。
■東急線、幻の新宿延伸計画
東急東横線の渋谷駅。かつて新宿まで延伸する計画があった副都心線との直通運転によって新宿に乗り入れる東急東横線。実は約100年前、既に新宿への延伸が計画されていた。
森口誠之「鉄道未成線を歩く 私鉄編」(JTBキャンブックス)によると、東急のルーツの1つ、武蔵電気鉄道が1912年(大正元年)、祐天寺から新宿までの新路線敷設免許を受けた。その後、五島慶太氏が計画を引き継ぎ、一時は新宿駅の整備計画にも組み込まれていく。1933年(昭和8年)にまとめられた新宿駅の開発計画図には、東横電鉄(現・東急)の新宿駅ホームがしっかり確保されていた。しかし結局実現には至らず、東横電鉄の新宿駅予定地はいま、京王線の地下ホームになっている。
■第2の山手線「東京山手急行」の痕跡が明大前に
幻の路線計画といえば、第2山手線ともいわれた東京山手急行がある。大井町から洲崎(現在の東陽町)まで、山手線の外側を走る大路線だ。
約90年前に華々しく計画が持ち上がり、免許を取得した。竹内正浩「地図と愉しむ東京歴史散歩」(中央公論新社)によると、きっかけは関東大震災。焼け出された人々が郊外に移り住んだものの、当時は山手線のターミナル駅から放射線状に延びる私鉄線しかなく、郊外同士を結ぶ環状線がなかった。そこで持ち上がったのが山手急行だった。
銀行家の太田一平氏が中心となって計画が進み、1927年(昭和2年)には東京山手急行電鉄を設立。社長には小田急電鉄の創始者、利光鶴松氏が就いた。計画は何度もルート変更を行い、実現を模索したが、結局資金難から頓挫してしまった。
実はこの路線、1カ所だけ痕跡が残っている。場所は明大前。京王井の頭線の駅の近くだ。
明大前駅近くの橋の下には、現在使っている2本のレールの横に、さらに2本分の線路を敷設できる場所(左)が残っている明治大学和泉キャンパスのすぐ近くに、旧玉川上水の水道橋がある。この橋の下をよく見てみると、2本分の線路を敷設するスペースが確保されているのがわかる。これが山手急行の痕跡なのだ。ここを新路線が通る予定だったという。計画頓挫前に行った唯一の工事だった。
山手線の外側で、住宅地をつなぐ環状線計画は現在もある。赤羽から葛西臨海公園まで、環状7号沿いに地下を走る「メトロセブン」、環状8号に沿って羽田空港から赤羽までを地下で結ぶ「エイトライナー」だ。多くの路線と乗り換えができるとあって周辺住民の期待は大きいが、膨大な建設費が壁となり、実現への道は開けていない。
いつの世も、鉄道の敷設は人々の夢を集めてきた。しかしその一方で、運行管理や資金難などの問題も顕在化している。夢と現実のはざまで、首都圏の鉄道網はどのような変化を見せていくのだろうか。(河尻定)
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