N
エンタメ!
東京ふしぎ探検隊

2013/11/15

東京ふしぎ探検隊

羽田より近いメリット 半分ほど埋め立てられた段階で中止に

「江東区史」は羽田が都心から遠いことを指摘する。羽田は東京駅から18キロ。これに対して新空港はわずか6キロ。この差は当時、大きかった。

さらに「飛行場の拡張性に限界があった」。当時、羽田空港の隣接地は工場地帯になると想定されていた。ある程度は拡張できても、飛行機が大型化する中ではより広大な空港が求められていた。

1939年(昭和14年)7月には起工式が行われ、埋め立てが始まった。しかし日中戦争勃発で物資が不足し始めると、工事は滞った。当初の予定では1941年(昭和16年)の完成を見込んでいたが、ずるずるとずれ込み、中止へと追い込まれていく。「東京港史」によると、全区域の50%が干潮時に1~3メートルほど露出する段階で工事は終了した。

戦後、GHQ(連合国軍総司令部)が羽田空港を拡張・整備する方針を示したことで、新空港計画は完全に消滅した。「東京港史」によると、周辺住民に対して、接収してから48時間以内に立ち退くよう通告するなど、かなり強引に拡張を進めたようだ。

東京駅に近い広大な国際空港。完成していたら、成田国際空港はできなかったかもしれない。成田闘争もなく、東京の重心は東寄りになっていたかも……。東京という都市そのものが大きく変わっていたに違いない。

海水浴場が名前の由来

空港が予定されていた当時、現・夢の島はまだ「江東区南砂町地先」という仮の名前しか与えられていなかった。「夢の島」という名称はいつ、どんな理由で付けられたのだろうか。

「東京のハワイ」が誕生します――。1947年(昭和22年)夏、「南砂町地先」に海水浴場がオープンした。目指すはハワイのような夢のあるリゾート。この海水浴場の名前が、「夢の島海水浴場」だった。

戦後の窮乏期とはいえ、海水浴場はにぎわったという。しかし開設からわずか3年で閉鎖されてしまう。度重なる台風被害と財政難が理由だった。東京湾に残っていた最後の本格的海水浴場は、「夢の島」という名前を残して姿を消した。

次のページ
夢の島、ハエ・ゴミ戦争で一躍有名に
エンタメ!連載記事一覧