東京スタディアム、稼働わずか1年 土ぼこりで試合できず

スポーツセンターが計画された場所は現在、武蔵野中央公園となっている

「土ぼこりがすごかったらしいですよ」。野球場の歴史に詳しい佐野さんが教えてくれた。

武蔵野市の図書館で地元の文献を調べてみると、当時を知る人がこんな証言を寄せていた。たましん歴史・美術館(東京都国立市)が編さんした雑誌「多摩のあゆみ第79号」から引用しよう。

「春になると西の方の空が真っ赤になるほど紅塵が舞い上がるのが毎年のことであった。集まった観客にその紅(あか)い砂が舞い落ち、目の中に入って野球をみておれない」(関島久雄「中島飛行機の大きな工場と小さな鉄道、そしてその後」)

当時、このエリアには連日強風が吹き、土ぼこりが舞った。グラウンドがかすむほどだったという。芝生が定着する前に見切り発車したことも響いたようだ。あまりに評判が悪かったため、オープン後1カ月で一時閉鎖して整備し直したものの、8月を最後に公式戦では使われなくなった。東京からの遠さも各球団の足が遠のいた一因だったようだ。

野球場行きの鉄道があった場所は現在、遊歩道になっている。「グリーンパーク」という名称が残っていた

佐野さんは「球場名が浸透しなかったことも影響したのでは」と推測する。「正式名称は東京スタディアムですが、運営会社は『武蔵野グリーンパーク』と呼んでと訴えていました。しかし新聞では『三鷹球場』『武蔵野球場』などとばらばらでした」。

結局、名前が浸透することもなく、運営会社は1953年(昭和28年)に解散。球場は1956年(昭和31年)に解体された。日本一の球場は、1年間稼働したあと放置され、わずか5年で姿を消した。

跡地は公園と団地に 廃線跡は遊歩道

野球場の挫折は、京王、西武の計画をも狂わせた。1958年(昭和33年)、当てが外れた両社はそれぞれ、新路線建設の申請を取り下げた。

西武はこう記す。「申請当時と著しく事情が変化した」。いずれは東京五輪の会場にも、と意気込んでいたというだけに、関係者の無念は想像に難くない。

ただ、免許申請を取り下げたのは、野球場計画の挫折だけが原因とも言い切れない。武蔵野市の地域誌などを見てみると、どうやら地元でも反対運動があったようだ。

東京スタディアムの跡地はいま、どうなっているのだろうか。武蔵野市役所に尋ねたところ、市役所のそばにある団地が跡地だとのこと。サッカー場やプールなどスポーツセンターが計画されていた場所は、その大半が武蔵野中央公園となっている。

現地を訪れると、わずかではあるが痕跡があった。

中央公園の近くには、かつてここに線路があったことを示す杭があった。「工」は国鉄を表している

かつて野球場まで走っていた鉄道跡は現在、「グリーンパーク遊歩道」という散歩道になっていた。野球場の名前が残っているのだ。遊歩道には「工」と書かれた杭(くい)があった。「工」とは旧国鉄のマークで、ここに線路があったことを示す。武蔵野市が立てた看板には当時の地図も載っていた。

日本一の野球場と京王・西武の鉄道計画。もし実現していたら吉祥寺は通過駅となり、「住みたい街」の歴史は大きく変わっていたかもしれない。(河尻定)

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