「武蔵野をスポーツ拠点に」 終戦後に構想

京王が提出した文書には、「日本一理想的なスポーツセンターを計画」と書いてあった(公文書館所蔵)

それにしても、ほとんど同時期に同じエリアで路線が競合するのは偶然とは思えない。何があったのか。改めて両社の申請書を見比べてみると、どちらにも、ある施設のことが書かれている。その施設の名は「スポーツセンター」という。

終戦後しばらくして、武蔵野市を一大スポーツ拠点にする構想が持ち上がった。陸上競技場やサッカー場、プールにテニスコート、巨大な選手宿舎などを作るという計画だ。その中核を担ったのが、当時日本一ともうたわれた野球場、「東京スタディアム」だった。

元近鉄バファローズ応援団長で「昭和プロ野球を彩った『球場』物語」などの著書がある佐野正幸さんによると、「東京スタディアム」は両翼91.4メートル、中堅128メートルもある立派な球場だった。収容人数も6万人近かったという。後楽園球場よりも大きかった。

京王・西武が狙う「日本一の野球場」へのアクセス権

京王、西武の新路線は、この球場へのアクセス権を巡る争いでもあったのだ。

都心部からかなり離れた場所に、なぜこれほど立派な野球場ができたのか。ジャーナリストの長沼石根さんによると、発案者は東海大学の創立者でもある松前重義氏だという。武蔵野市が編さんした「武蔵野百年史こぼればなし」で長沼さんがこんな経緯を紹介している。

中島飛行機の工場があった広大な敷地に、戦後、武蔵野市がスポーツ施設を構想した。市がプロジェクトのリーダーとして目を付けたのは、市内在住の松前重義氏。逓信院総裁も務めた松前氏を三顧の礼で迎え入れ、何を目玉にするか議論した。

関係者の多くは競輪場を主張したが、松前氏は野球場を強く推し、1949年10月、野球場建設が決まった。ちなみに中島飛行機は後に解体され、その一部は富士重工業となる。

武蔵野中央公園に向かう遊歩道の途中に、武蔵野市が作製した看板があった。三鷹駅の北にかつて野球場があったことを示している

さっそく松前氏は国鉄に話を持ちかけ、三鷹駅から中央線を分岐させることに成功する。中島飛行機が三鷹から工場まで物資を運ぶために使っていた引き込み線を利用したのだ。球場の前には「武蔵野競技場前」という駅を設置し、試合がある日は東京駅から直通運転を行った。

さらには発足したばかりの国鉄スワローズなどプロ球団に声をかけ、1951年(昭和26年)からプロ野球の公式戦が行われるようになった。初戦の勝利投手は国鉄の金田正一。川上哲治、青田昇らスター選手が連日登場した。

だが、活躍もここまで。なんとこの球場、たった1年しか稼働しなかったのだ。

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東京スタディアム、稼働わずか1年 土ぼこりで試合で
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