村上春樹や純文学に詳しい早稲田大学文学部准教授・市川真人氏は、「こういう騒ぎになるのは『1Q84』以降の出来事。春樹への期待の増加もあるが、それ以上に、この10年で社会構造が一気に変わった」と見ている。

「ネット媒体の普及でリアルタイムの情報拡散が進み、目立つ“祭り”ほど人が集まりやすくなった。本が欲しいだけなら予約しておけば確実に手に入るし、ほかにも魅力的な本はある。なかでも深夜に代官山まで出向いて買うのは、春樹ファンであり、かつイベント的なものが好きな層。イベントも含めて、春樹を消費しようとした」

0時に行われた“生”の盛り上がりは、メディアを通じて即座に広がっていった。そんな消費のされ方に対して、「春樹がこの小説で語り、構造的にやっていることは逆」と市川氏はみる。

物語の主人公は、36歳の多崎つくる。多崎は幼少期からの駅好きで、鉄道会社に勤め、駅舎を設計している。高校時代は4人の親友がいたのだが、ある日一方的に絶交されて深い傷となっている。傷にふたをしたまま過ごしてきたが、年上の女性・沙羅から真相を確かめるべきだと諭され、友人を訪ねる“巡礼の旅”を始める。そんな話だ。

「文章は丁寧で読みやすく、春樹らしい突飛(とっぴ)な比喩も使っていない。クラシカルな文学です。作品の設定はネットが普及した2012年前後でフェイスブックも出てくるけれど、主人公はそれを用いずに自らの足で友人たちに会いに行く。そのことと、“駅”がキーワードとなっていることも無関係ではありません。ネットの自在さに対して鉄道は近代の象徴、限られた場所に正確にたどり着くための手段ですから。そういうものの大切さを感じさせる点では反ネット小説という側面も見逃せません」(市川氏)

さらには、「しばしば春樹はノンポリと批判されてきましたが、敵の内部で闘うことを選んできた人でもある。今の自分はネット時代の社会構造で受け入れられていることを分かりつつ一石を投じる、そんな本なのでは」と本書のヒットの理由を分析する。

(ライター 平山ゆりの)

[日経エンタテインメント! 2013年6月号の記事を基に再構成]