構内に大空間 新宿駅、東西通路が変える人の流れ

再開発前の西口は工場と学校の集積地

造成中の新宿副都心。1968年ごろ撮影(新宿歴史博物館提供)

早くから商業施設が集まっていた東口に対し、西口では開発が遅れていた。新宿歴史博物館の学芸員、後藤理加さんによると、西口は1898年(明治31年)にできた淀橋浄水場と、1902年(明治35年)にできた六桜社(現コニカミノルタ)の工場、それにたばこ工場があり、東口ほどのにぎわいはなかった。

西口は工場のほか、学校も多かった。斑目文雄「新宿西口・東口・四谷あたり」(原書房)によると女子独立学校(のちに精華学園、現在は東海大学付属望洋高校)、東京女子大学、日本中学校(現・日本学園)、明治学院神学部、工学院大学が一時、校舎を構えていた。東京女子大は1918年(大正7年)に新渡戸稲造が新宿で開校したのが始まりだ。女子独立学校は精華学園時代に内村鑑三が一時期校長を務めていたことでも知られている。現在、西口に残っているのは工学院大学だけだ。

新宿副都心計画が進んだのは1950年代後半から1960年代半ばにかけて。1965年(昭和40年)には淀橋浄水場が閉鎖となり、跡地は高層ビル群になった。西口は急速に発展し、1970年代半ばまでにはほぼ現在のような街並みとなった。

西口に女子野球の球場があった

東京生命球場の外観。1964年10月に撮影(新宿歴史博物館提供)

ところで新宿歴史博物館で西口の歴史を調べていると、興味深い写真を見つけた。それは「東京生命球場」という名の野球場の写真だった。西口が副都心として開発される前のことらしい。どんな球場だったのか。「昭和プロ野球を彩った『球場』物語」などの著書がある佐野正幸さんに聞いた。

「東京生命球場は現在の新宿中央公園にありました。戦後、盛り上がった女子野球の本拠地だったようです」

桑原稲敏「女たちのプレーボール」(風人社)によると、東京生命球場ができたのは1951年(昭和26年)。当時の日刊スポーツにはこんなくだりがある。

「球場の広さは後楽園にも劣らぬものであるが、ただ外野のフェンスが低いのと、観客収容量が十分でないため、プロ野球の球場としては、本塁打が乱発のおそれがあるかも知れない。女子野球、高校野球、実業団には適当な球場となるであろう」

当時、女子野球は人気を集め、乾電池メーカーがスポンサーの「岡田バッテリーズ」や「京浜ジャイアンツ」などのチームがあったらしい。1950年に女子プロ野球を標榜して団体を立ち上げたが、2年後には社会人野球に転換、ノンプロ化した。1960年代後半には球団が次々解散し、女子野球の歴史は幕を閉じた。女子野球がプロとして復活したのは2009年のことだ。現在では関西を中心に試合が行われている。

歴史が詰まった新宿駅周辺。次回は新宿の鉄道路線についてとりあげる。(河尻定)

かつて東京生命球場があった場所は現在、新宿中央公園の一部となっている
新宿中央公園に隣接する熊野神社は新宿周辺の守り神
造成中の新宿副都心。中央は最初にできた超高層ビル、京王プラザホテル。1970年5月撮影(新宿歴史博物館提供)

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