江戸から東京に変わる 東京駅誕生の秘密日経おとなのOFF

2012/10/4

こだわりOFF

明治に入り、「江戸」が「東京」に改められ、事実上の東京遷都が実現すると、本格的な都市計画が練られていく。明治23年に、中央停車場設置の訓令が下されるも、開業までには約30年の歳月がかかった。首都・東京の発展の契機となった東京駅誕生秘話を追った。
着工は明治41年。6年後の大正3年12月に、総坪数3184坪、正面長334.5mの巨大な駅舎が完成。開業直前に、「中央停車場」から「東京駅」と名称が改められた

丸の内に東京駅が開業したのは大正3(1914)年のこと。日本初の鉄道駅、新橋は明治5年に開業し、上野、新宿、渋谷といった主要ステーションもすべて明治期に完成している。実は、東京駅は最も遅い開業だったのである。

市街地を避けるように(実際には市街地に阻まれていたのだが)分断されていた鉄道を結び、都市内交通を活性化しようと、明治17(1884)年に、中央停車場(東京駅)の建設計画が浮上する。

建設予定地となった丸の内は、明治維新後は陸軍の練兵場として使用され、その後は司法関係の施設が立ち並んでいた。一方、明治政府は皇居東側の広大な敷地を岩崎彌太郎に払い下げ、三菱による都市開発が始動する。中央停車場建設と三菱への払い下げは、丸の内が将来東京の中心地になることを見越しての政府の決断だった。

それにしても、完成するまでにかかった年月は長い。これには日露戦争が関係している。明治33年に市街高架線工事は着工されたが、地盤の問題もあって難航。そのうちに日露戦争が勃発し、工事中断を余儀なくされたのだ。

コンドルの愛弟子 辰野金吾 1854~1919年。佐賀県生まれ。政府関連の建物を設計したジョサイア・コンドルの愛弟子。辰野が東大工学部に入学した後、教鞭を執ったのがコンドルだった。赤い煉瓦は辰野建築の特徴。日本の“煉瓦積造”を確立した建築家として評価されている。国立国会図書館蔵

その間、設計担当者の交代劇もあった。中央停車場の設計は、西洋建築の第一人者である辰野金吾だといわれているが、当初はドイツ人建築家、バルツァーの手でプランニングが行われていた。ところが、その案に不満だった鉄道作業局長官の平井晴二郎(後の鉄道院副総裁)が、設計を辰野に依頼。辰野はバルツァー案を継承しつつ、「建物を連続させ、壮観を呈するものに」という平井の注文に応じ、3案を作成した。

実は最終案の3階建て駅舎は、予定より数段、規模が大きいものだった。日露戦争の勝利により予算が増額され、国威を示すことが重要視されたためである。日露戦争が駅舎の規模にまで影響を及ぼしたことになる。

国家の威信を懸けて建設された東京駅は、その後、丸の内をビジネスの中心街へと育ててゆく。そして、第2、第3の丸の内の発展に貢献していくのである。

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辰野金吾が情熱を注いだ大正の東京駅がよみがえった