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小田急に「林間」駅なぜ多い 夢と消えた遷都構想

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NIKKEI STYLE

中央林間、南林間、東林間――。小田急電鉄の路線図を見ると、「林間」と名乗る駅が目に付く。相模原市から大和市にまたがるエリアにあり、住所にもなっている。この辺りに伝わる由緒ある地名なのだろうか。調べてみると、それはかつて小田急が進めた壮大な都市計画の名残だった。遷都論まで飛び出した構想の全貌を探った。

小田急が推進した「林間都市計画」

新宿駅から小田急小田原線に乗り、相模大野駅で江ノ島線に乗り換える。神奈川県大和市の中央林間駅は、新宿から50分ほどの場所にある。

改札を出て駅の周りを歩いても、「林間」のイメージはない。周辺はスーパーや銀行、マンションが立ち並び、典型的な私鉄沿線の街並みとなっている。

なぜここが中央「林間」なのか。地域の歴史に詳しい、つる舞の里歴史資料館(大和市)を訪れると、資料館職員の箱崎淳さんが解説してくれた。

「中央林間駅は1929年(昭和4年)、中央林間都市という駅名で開業しました。小田急が推進した『林間都市計画』の中心だったのです。林間という名前は、この辺りがかつてカラマツなどが生い茂る雑木林だったことに由来しています」

箱崎さんによると、小田急は中央林間、南林間、東林間に合計80万坪(260万平方メートル)もの用地を取得した。中央林間と南林間を高級住宅地とし、東林間には工場を誘致。さらには小田原線の座間駅付近にも20万坪(66万平方メートル)ほどの土地を買収して遊園地をつくる計画だったという。住む場所、働く場所、遊ぶ場所を一気に整備するというわけだ。

単なる机上の計画ではない。中央林間と南林間では実際に区画整理を行い、1929年から土地の分譲を始めた。「道路や街区など街の骨格部分はできあがり、現在もその姿をとどめています」と箱崎さん。確かに、当時の計画図と現在の地図を見比べてみると、碁盤の目状に走る道路はほとんど、計画通りになっている。

「神奈川の軽井沢」 さわやかなイメージで売り出す

神奈川の軽井沢――。関係者は当時、林間都市をこう呼んでいた。小田急が打ち出した売り出し文句は「Your House on Your Land」(あなたの家はあなたの土地に)。

大和市が発行する「大和市史研究第12号」(1986年3月)に関係者による座談会、「中央林間を語る」が載っている。それによると当時、このキャッチフレーズが大いに受けたという。

計画当初、新設する駅は「公所(ぐぞ)」「相模ケ丘」「中和田」という名前だった。これが開業1カ月前になって急きょ「中央林間都市」「南林間都市」「東林間都市」と変わった。小田急本社から強い要請があったという。さわやかな林間に広がる都市、というイメージを植え付けたかったようだ。

4面の野球場やラグビー場 「スポーツ都市」目指す

林間都市計画は、住宅地開発にとどまらなかった。

小田急は中央林間と南林間の中間に広大な「スポーツ都市」を建設した。そのスケールが何とも大きい。2万4000坪の土地に野球場を4面整備したのをはじめ、5000坪のラグビー場、テニスコート、ホッケー場、スポーツクラブを新設した。野球場では学生野球などの大会を行ったという。

松竹の撮影所は大船ではなく林間都市に移転予定だった

さらには大日本相撲協会(当時)が力士の養成所を開いた。1931年(昭和6年)6月には300人もの力士を集めて盛大な土俵開きを行い、当時の大関、大ノ里や関脇の天龍らが参加する相撲大会を実施。期間中、電車は連日満員だったという。

しかし翌1932年には関脇・天龍らが力士の待遇改善を求め協会を脱退するなど騒動が勃発。相撲学校もそのあおりを受け、あっけなく消滅してしまった。

スポーツ都市構想とは別に、ゴルフ場も生まれた。これが相模カンツリー倶楽部、現在も続く名門ゴルフ場だ。会員権は流通しておらず、会員になるのが難しいゴルフ場として知られている。

野球場の近くには女学校、大和学園が開校した。小田急創業者、利光鶴松の娘、伊東静江が園長を務めた。現在は「大和学園 聖セシリア」となり、幼稚園から大学まで運営している。

実現しなかった計画もある。松竹は当時、蒲田にあった撮影所を林間都市に移転する構想を持っていた。つる舞の里歴史資料館の箱崎さんによると、実際に土地も取得したという。しかし結局移転は実現せず、蒲田撮影所は神奈川県鎌倉市の大船に移ることになる。

小田急創業者・利光鶴松、林間都市への遷都構想も

何ともスケールの大きな林間都市。一連の計画を主導したのは小田急の創業者、利光鶴松だった。

利光は衆議院議員などを務めた政治家だ。鉄道事業に進出し、小田急を創業した。新宿から小田原まで80キロ超をわずか1年半で敷設した手腕は当時、大きな話題となったという。

小田急電鉄の社史、「小田急五十年史」によると、利光社長が林間都市を構想したのは大正中期以降。小田急線の計画と並行して考えていたらしい。当時、渋沢栄一が田園都市会社を設立し、息子の渋沢秀雄らが中心となって田園調布に「田園都市」を建設した。後に東京急行電鉄の母体ともなるこの計画が、利光社長を刺激したという。

社史によると、利光社長はさらに大きな構想を抱いていた。林間都市に首都を移転するというプランだ。東京郊外こそこれからの時代の中心となる――。利光社長にとって、林間都市は理想の都市像だった。

東京から1時間 不況重なり分譲進まず

鳴り物入りで始まった林間都市計画はしかし、思うように進まなかった。土地の分譲が低調だったのだ。資料館の箱崎さんによると、「当初5000戸を見込んでいたのに、10年後の1939年(昭和14年)時点の販売実績は全体の31%程度にとどまっていた」という。なぜなのか。

「東京からあまりにも遠かったこと、その割に分譲価格が高すぎたこと、そして時代の逆風と悪条件が重なってしまった」

北海道大学大学院の越沢明教授によると、林間都市の分譲価格は当時、高級別荘地の江ノ島よりは安いものの、鎌倉より高かったという。

しかも当時、林間都市から新宿まで約1時間かかっていた。さらには1時間ごとの運行で本数も少なかった。これでは人々の関心はなかなか、集まらない。

小田急は次々とてこ入れ策を打ち出す。まずは土地取得者は新宿までの乗車運賃を3年間無料化した。さらには無料期間後も「永久に新宿―成城学園と同等まで割り引く」といった措置を発表するなど、通勤客にアピールした。しかしそれでも分譲は増えなかった。

折しも昭和恐慌から戦争へと突き進む時代。不況下で購入後に解約する人も多かったという。関東大震災直後、郊外への関心が高まった時代に開発を進めた東急とは対照的なタイミングの悪さだった。

1941年(昭和16年)、小田急はついに決断を下す。中央林間都市、南林間都市、東林間都市の駅名から「都市」を外したのだ。その理由について1980年(昭和55年)発行の社史はこう記す。

「雄大な駅名に反して肝心の『都市』の建設は一向にはかどらず、林間都市と呼ぶにはへだたりがありすぎた」

壮大な計画は、こうして道半ばで進行を止めた。


小田急、東急の中央林間接続に異議

中央林間が再び注目されたのは、昭和30年代になってから。そのきっかけとなったのが、東急・大井町線の中央林間延伸だった。現在の田園都市線だ。

実は、この延伸計画が浮上したとき、小田急は異議を唱えている。

東急がまとめた「多摩田園都市 開発35年の歴史」によると、1960年(昭和35年)、計画を説明する公聴会を前に、小田急は東急に対してこんな文書を送った。

「貴社申請の終点予定地中央林間およびその周辺は弊社の新宿線の勢力圏内と考えられますので、貴社の終点予定地を弊社江ノ島線の鶴間以南に変更されたいと存じます。なお大和・鶴間地区は、工場誘致等の計画があり、将来の発展が予想されており、地元民もこの方を歓迎している情勢にありますので、貴社にとってもかえって好都合かと存じます」

要請を受け、東急は既に免許を受けていた「溝ノ口(当時)~中央林間」のうち、「長津田~中央林間」間について工事を見送った。「多摩田園都市 開発35年の歴史」はその理由について、ルートの確定ができなかったこと、土地買収が進行途中であったことと並び、「終点予定地の変更を求めた小田急電鉄の申し入れを考慮に入れた」と書いている。

しかし再検討の結果、中央林間での接続を決める。ただ東急・中央林間駅の設置場所がなかなか決まらなかったことなどから開業はずれ込み、1984年(昭和59年)、ようやく田園都市線は中央林間まで開通した。ここから中央林間は一気に開発の度を早めていく。

東急の田園都市計画に触発されて始めた中央林間の開発が、東急との接続によって息を吹き返す。何とも皮肉な展開ではある。

「都市」の時代に「林間」名乗る

現在、中央林間は小田急、東急合わせて約20万人が乗り降りする神奈川県の中核都市の1つとなっている。小田急の社史は記す。

「三駅は『林間』の時代に『都市』であり、『都市』の時代に『林間』を名乗るという皮肉な結果となっている」

都市開発は一筋縄ではいかない。今も街のあちこちに息づく計画の名残は、複雑な要素が絡み合う計画の難しさを物語っている。(河尻定)


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