松尾多勢子 幕末駆け抜けた「おばさん力」ヒロインは強し(木内昇)

2013/11/3

女と生まれたからには、最強の人類と名高い「おばさん」期を経ずしてなんとなる、と思うことがある。他人の目などお構いなし、やりたいことをし、思ったことを言う。恥じらい? そんなものはとうの昔に縁を切りました。仕事の場では誰しも理性で自分を律しがちだが、例えば現状を打破する場面などで、案外この「おばさん力」はものを言いそうな気もする。

■勤王家として活躍 1811~1894年。信濃国伊那谷飯田城下の山本村(現・長野県飯田市)に生まれる。文久2年(1862年)に京に上り、彼の地で平田国学の門人と親交を結び、諸藩の攘夷志士の活動を助ける。足利三代の木像の首が何者かによって梟首(きょうしゅ)された事件に関与したとの疑いを受け、一旦は伊那谷に戻り、訪ねてくる勤王家を家に泊めて世話する。明治元年(1868年)再度入京。岩倉具視に仕え、国事に関わる。

さて、幕末の伊那谷に松尾多勢子なる女性がいた。豪農の家に育ちながら、畑仕事よりも書物が好きな少女だった。こと和歌に関心を持ち、当時の農村には珍しく、師について本格的に学んでいる。

十八歳で嫁いだのちは七人の子を育て、舅(しゅうと)、姑(しゅうとめ)にも従順に仕え、胃弱な夫のために毎朝三十分按摩をする献身ぶり。要領も手際もよく、賢妻として評判が立つほどだったが、元来知識欲や好奇心が強い彼女は家の中だけに収まってはいなかった。

子育てが一段落すると、夫を伴い旅するようになるのだ。松本、遠州(静岡)、さらには江戸まで。家が裕福だったこともあるだろうが、女性がこれほど旅するのは、当時としては珍しい。老いた夫が体力的問題から家に留まるようになると、今度は平田国学を学んで攘夷思想を育み、挙げ句、嫁いだ娘の家に遊びに行くと嘘をつき、尊皇攘夷の活動に勤しむため単身京へ上ってしまうのである。このとき五十二歳。普通なら隠居している歳である。

ここから多勢子は、地縁も薄い京でよくぞこれだけ、と感嘆せずにはいられぬ人脈を着々と築いていく。長州や土佐の志士たちと国事を語り合い、公家の歌会にまで参加。一旦伊那に戻って勤王家をかくまう働きをしたのち、再度上京すると今度は岩倉具視と接触、その信頼を勝ち得て屋敷に住み込むことを許され、女参事のような仕事を任されたというから驚く。岩倉はこの頃、王政復古を成し遂げていた。多勢子の働きを認めたのだろう、維新後、中央政府の要職に就いたのちも彼女を東京に招いたり、西洋菓子を送ったりと、親交を続けたという。動乱の京でつちかった人脈は、のちのちまで彼女の人生を彩ったのだ。

しかし、特別な地位にあったわけでもない普通の「おばさん」がなぜここまで活躍できたのか。それは、彼女の教養もさることながら、体裁を繕わない正直さが、海千山千の中で信頼を勝ち得たからではないか。こんなことをしたら恥ずかしい、格好悪いと物怖じする場面で、彼女は堂々と自分を貫いたのだ。

周りを無視した厚顔は仕事に支障をきたす。だが、しがらみを取っ払い、真摯に本音を訴えて行動を起こすことは、物事を本質的に動かす上で不可欠だ。そしてこの能力は案外、建前や立場を重んじる男性より、「おばさん力」を内に秘めた女性のほうが長けている気もするのだ。

家庭人としての務めを果たし、勤王家として活躍し、多くの要人と交流をした。多勢子の希有な人生は、正直に生きた道筋そのものなのだ。

[日本経済新聞朝刊女性面2013年11月2日付]

木内 昇(きうち・のぼり) 67年東京生まれ。作家。著書に「茗荷谷の猫」「漂砂のうたう」(直木賞)「笑い三年、泣き三月。」「ある男」など。

※「ヒロインは強し」では、直木賞作家の木内昇氏が歴史上の女性にフォーカス。男社会で奮闘した女性たちの葛藤を軽妙に描きます。