松本英子 現実への探求心、取材力培うヒロインは強し(木内昇)

足尾鉱毒事件は、日本の公害第一号とも言われている。明治期に、栃木の足尾銅山が廃液を垂れ流したことにより、渡良瀬川では大量の魚が死に、流域の農地では作物が立ち枯れになった。農民たちは鉱毒除去を政府に求め、栃木出身の代議士・田中正造も三十万の住人に被害が及んだ実態を国会で告げた。が、政府側の返答は「被害の原因は確実ではない」というひどく無責任なものだった。

■足尾鉱毒事件、住民の声拾う 1866~1928年。上総国望陀郡茅野町の農家に生まれる。父・貞樹に読み書き、和歌を学び、父の友人である津田仙(津田梅子の父)のもとで英語を学ぶ。明治25年(1892年)、外務省翻訳官の家永豊吉と結婚し一児を儲けるが、夫の破産によって一家離散。華族女学校で教鞭をとったのち、キリスト主義の運動団体・日本婦人矯風会に入会。明治35年(1902年)、渡米。再婚後も講演や執筆を続ける。

十年経っても二十年経っても問題は解決を見ず、ついに住民が抗議行動を起こすも、憲兵に阻止され嘆願は届かない。そんな状況を、筆の力でくつがえそうとした女性がいた。日本婦人矯風会の一員だった松本英子である。

「公害問題となってより已に幾多の歳月を経過しているにも拘らず、或は新聞に演説に又は書物として其の実況を画き輿論に訴えつつある有志者のあるにも拘らず、未だ十分に世人の注目を切迫せる此の点に促すに至らず」

彼女は、谷中村など特に被害の大きかった地域を視察、ていねいな取材を通して住民たちの貴重な証言を多数取り上げていく。以前の渡良瀬川流域がいかに豊穣な耕作地であったか、蝦や鮭の捕れた川がどれほど澄んでいたか。この地で農業や水産業を営んでいた人々の暮らしが公害によってどう変わったのか――。個々の家族構成、公害後の収入源、不安や苦痛を冷静に克明に記している。

「前にあの向こうに見えるあの屋敷に居りやしたが、鉱毒がきやんして、此の様な悲しい事になりやんした」

証言者の口調もそのままに生かしてあるため、一人一人の人柄まで伝わってきて、読んでいるこちらも事件が他人事とは思えなくなる。

英子は、教育熱心だった父のもと、幼い頃より書物に親しみ、英語も学んだ。女子高等師範学校卒業後は教師として勤めていたが、足尾鉱毒事件を契機に毎日新聞(現在のものとは異なる)の記者として働くようになったのだ。

だが実情を如実に伝える記事ゆえ当局から睨まれ、警察の取り調べも受けた。真実を伝えているのに……と無念さが残ったのだろう。こののち彼女は渡米するのだが、在米中も第一次世界大戦について非戦記事を書くなど、文筆業に生涯関わり続けるのだ。

英子が本格的に記者として活躍したのは一時のことに違いない。が、その神髄を彼女は会得していたように思う。自ら現場に足を運び、人々の声を真摯に聞き、先入観を持たずに現実を受け止め、それを自分の言葉で記事にする。同じ事象に接しても、見方は千差万別。つまり真実は人の数だけある。だからこそ、現実へのたゆまぬ探求心と畏れが不可欠なのだと、彼女の姿勢は物語っている。

女性記者が希有な時代、取材は苦労の連続だったろう。だが英子は、結論ありきの誘導や安直な予定調和でお茶を濁さず、個に寄り添った報道を貫いた。それはとりもなおさず、読者も含めた人間への敬愛を常に抱いていた証なのではないだろうか。

[日本経済新聞朝刊女性面2014年5月3日付]

木内 昇(きうち・のぼり) 67年東京生まれ。作家。著書に「茗荷谷の猫」「漂砂のうたう」(直木賞)「笑い三年、泣き三月。」「ある男」など。

※「ヒロインは強し」では、直木賞作家の木内昇氏が歴史上の女性にフォーカス。男社会で奮闘した女性たちの葛藤を軽妙に描きます。

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