身近な存在なのに、ふだんあまり注意を払うことがないのがマンホールの蓋。しかし、よく目を凝らすと、日常生活に必要な情報や都市の仕組み、意外な歴史など様々な情報が見えてくる。特に最近は「マンホールサミット」や交流イベント、研究会が開かれるなどブームがじわりと盛り上がっており、海外に輸出可能な独自の日本文化として「クールジャパン」戦略の一翼を担う役割も期待されている。
そこで今回は「マンホールの謎」について探ってみることにした。
3月8日。東京・神田で開かれた第1回「マンホールサミット」。愛好家や研究者、ジャーナリストら約300人が詰め掛けた会場では、マンホールの蓋についての講演やトークショーが催されたほか、珍しい関連グッズや書籍を販売するコーナーも併設。熱い空気に包まれていた。
「マンホールの蓋は造形美も鑑賞できて楽しいし、珍しいお宝を発見できるのも魅力。さらにカラフルなデザインマンホールも全国各地に設置されており、マニアが着実に増えているようだ」。サミットを企画した下水道広報プラットホーム(東京)の藤原昇・企画運営委員はブームの広がりを実感している。
「真実の口」はマンホールだった
そもそもマンホールはどんな歴史をたどってきたのだろうか?
最初に基礎知識を確認しておこう。
下水道が最初に誕生したのはメソポタミアや古代インドだとされる。バビロンやモヘンジョ・ダロなどの都市で下水道が造られていたという記録が残っている。その後はクレタ島や古代ローマなどでも整備され、徐々に各時代の文明地域に広がっていった。
興味深いのはオードリー・ヘップバーンとグレゴリー・ペックが共演した映画「ローマの休日」に登場する「真実の口」。実は古代ローマの貴族の家にあったマンホールの蓋だったそうだ。
ペストやコレラなどの大流行に伴い都市の衛生環境の改善が急務になると、欧米の主要都市に下水道が敷設され、マンホールの蓋は暮らしに欠かせない町の風景の一部として定着するようになる。
東京市型と名古屋市型が二大勢力
日本に最初に導入されたのは1881年(明治14年)。神奈川県御用掛(土木部長)の三田善太郎氏が立案し、横浜の外国人居留地に敷設。一方、東京で初の下水道は神田の「神田下水」で1884年に敷設された。当時の神田は「疫病の巣窟」と呼ばれた地域。記録によると「鋳鉄製格子形」のマンホールが使われていたという。
丸形で中央に市章の入ったマンホールのデザインは主に英国を参考に考案され、やがて「東京市型」と「名古屋市型」が二大勢力を形成するようになる。これは、指導的な技術者がいた東京市と名古屋市を中心に普及が進んだためだ。
特に「東京市型」は日本工業規格(JIS)のデザインに採用され、今でも数多く残っているからなじみの深い読者は多いだろう。愛好家によると、全国には「東京市型」と「名古屋市型」が入り交じった“ハイブリッド型”が見つかったり、「名古屋市型」が東京都内で見つかったりした例もあるという。
このように当初、日本のマンホールは欧米の影響を受けながら発展してきたが、その後は高温多湿、豪雨、台風、人口過密、交通事情など特有の風土・環境を加味しながら独自に進化の道をたどることになる。
以上がざっくりしたマンホールの歴史である。