「世界で通用するチームにする」 中田久美氏
久光製薬スプリングス監督
練習する選手の一挙手一投足に注ぐ視線。コートサイドに立つりんとした姿。監督就任1年目で、久光製薬スプリングスを6年ぶりのV・プレミアリーグ覇者に仕立て上げた"スゴ腕"は、スラッとしてきゃしゃにさえ映る。
男性監督が牛耳ってきたバレー界に女性監督登場とあって、シーズン当初から注目を集めた。興味本位の視線をものともせずに出した結果は、全日本選手権、プレミアリーグ、黒鷲旗全日本男女選抜バレーボール大会の3冠達成。女性バレー初の快挙だ。
「負けていい試合はない」、そう断言するのは勝ったときの「達成感」がアスリートの成長の原点となることを熟知するからだ。「達成感は一日で消えてしまう。でも、あの一瞬を感じたいからこそ今を頑張れる」。達成感とはどうやら魔法のようなものらしい。
「人生の三大転機を挙げるとしたら」と問うてみた。最初は13歳、故・山田重雄監督との出会いだ。女子バレーで一時代を築いた恩師から、いきなり「世界一を取れ」と眼前に突きつけられ、千尋の谷に突き落とされた。そこからはい上がる強さを学ぶ。2つめは21歳、右膝前十字じん帯を断裂した時だ。再起不能とまでいわれた大けがで地獄を見た。"仕事"をしたくてもできない一方で重くなる役割。立ち止まざるを得ない時の流れの中、自分で考えるということを学んだ。
84年ロサンゼルス、88年ソウル、92年バルセロナと3度のオリンピックに出場したが、切に願った金メダルは手にできなかった。29歳で結婚するも夫の親と折り合えず3年後に離婚。もともとが完璧にやりたいタイプだ。「でも結婚に完璧を求めてちゃいけなかった」。結局、自分で行き詰まった。
30代はエネルギーを燃やせるものをひたすら探し続けた。ファッションモデル、テレビの仕事、講演、バレー教室・・・。だが完全燃焼はできなかった。
41歳の時に父が亡くなった。これが3つめの転機だ。末期がんであっけなく逝った父が微笑みながら残した言葉は「人生に悔いはない」。魂が揺さぶられた。自分だったらそう言えるだろうか――。「こんな生き方じゃダメだ」
たぶん自分の中で答えは出ていた、「バレー界に戻る」と。ただ人生を懸けてきたものだからこそ戻るのも慎重だった。いいかげんな気持ちでは戻れない。それを確かめるために、単身でイタリアのプロリーグ、セリエAのチームの門戸をたたき、コーチ修業を請うた。自分と向き合うには、言葉もわからず、頼る人のいない環境がどうしても必要だったのだ。
イタリアでの生活は困難に満ちた2年間だった。コーチとして伝えたいことが伝えられない。自分に対するぶつけようのない怒り。それらは大きな原動力となり、バレー界での覚悟につながった。
「選手時代も今も楽しいことは一度もない」とサラリと言ってのける。どうやら本当らしいが、引退から復帰までの14年間、悩みながらいろいろ経験したからこそ「バレーが一番好き」と言い切れる。
本人に「女性監督」の意識はない。ただ「一生懸命やっているフリと涙。女だからそれは見破れる」と笑い飛ばす。もちろん選手たちはわが子のようにかわいい。親に代わり妙齢の女子を預かる立場だ。全身全霊をかけなければならない仕事だが「こんなやりがいのあることはない」。やりがいの意味を問うと「特別な能力のある人たちの夢を達成するお手伝いができるから」。意地とプライドでは人後に落ちないイメージの「中田久美」から、お手伝いという言葉が返ってきた。これも経験が培ったものだろう。「やっぱり経験は財産・・・」。しみじみと言ったのが印象的だった。
選手・スタッフ一人ひとりにやる気を起こさせ、チームをスムーズに回す力。それを求められて1年目は「土壌を固め大きな岩を一気にてっぺんに持ち上げた」。「こつこつが嫌い」という監督の「いちかばちか」の手法が奏功した。2年目は速さを追求するバレーのリズムを確立することが目標だ。3~4年で世界に通用するチームにし、できるだけ多くの選手を次のオリンピックに送り出す。そのために、四六時中バレーのことを考えている。
豪放に見えて、その実は「石橋をたたいてたたき割る」ほどの慎重派。食欲はうせ、選手起用を考えて眠れない夜もあった。きゃしゃに見えた姿の理由はこれだ。監督とは「怖くて体重計に乗れなくなる」ほどにハードな仕事なのだ。(福沢淳子)
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