2013/5/11

たぶん自分の中で答えは出ていた、「バレー界に戻る」と。ただ人生を懸けてきたものだからこそ戻るのも慎重だった。いいかげんな気持ちでは戻れない。それを確かめるために、単身でイタリアのプロリーグ、セリエAのチームの門戸をたたき、コーチ修業を請うた。自分と向き合うには、言葉もわからず、頼る人のいない環境がどうしても必要だったのだ。

自身の果たせなかった金メダルの夢を選手に託す

イタリアでの生活は困難に満ちた2年間だった。コーチとして伝えたいことが伝えられない。自分に対するぶつけようのない怒り。それらは大きな原動力となり、バレー界での覚悟につながった。

「選手時代も今も楽しいことは一度もない」とサラリと言ってのける。どうやら本当らしいが、引退から復帰までの14年間、悩みながらいろいろ経験したからこそ「バレーが一番好き」と言い切れる。

本人に「女性監督」の意識はない。ただ「一生懸命やっているフリと涙。女だからそれは見破れる」と笑い飛ばす。もちろん選手たちはわが子のようにかわいい。親に代わり妙齢の女子を預かる立場だ。全身全霊をかけなければならない仕事だが「こんなやりがいのあることはない」。やりがいの意味を問うと「特別な能力のある人たちの夢を達成するお手伝いができるから」。意地とプライドでは人後に落ちないイメージの「中田久美」から、お手伝いという言葉が返ってきた。これも経験が培ったものだろう。「やっぱり経験は財産・・・」。しみじみと言ったのが印象的だった。

選手・スタッフ一人ひとりにやる気を起こさせ、チームをスムーズに回す力。それを求められて1年目は「土壌を固め大きな岩を一気にてっぺんに持ち上げた」。「こつこつが嫌い」という監督の「いちかばちか」の手法が奏功した。2年目は速さを追求するバレーのリズムを確立することが目標だ。3~4年で世界に通用するチームにし、できるだけ多くの選手を次のオリンピックに送り出す。そのために、四六時中バレーのことを考えている。

豪放に見えて、その実は「石橋をたたいてたたき割る」ほどの慎重派。食欲はうせ、選手起用を考えて眠れない夜もあった。きゃしゃに見えた姿の理由はこれだ。監督とは「怖くて体重計に乗れなくなる」ほどにハードな仕事なのだ。(福沢淳子)

中田久美氏(なかだ・くみ) 天才セッターと称され15歳で全日本入り。84年ロサンゼルス五輪銅メダル。97年に現役を引退し、11年全日本ユースのコーチ。12年から久光製薬スプリングス監督に。47歳