沢村貞子 料理も掃除も粋に演じる
ヒロインは強し(木内昇)
粋といえばこの人である。二十代で女優の道に踏み入ってから八十一歳の引退まで、幅広い役をこなした存在感ある名優だ。が、どれほどキャリアを積んでも奢(おご)らず遅刻せず、完璧に台詞を覚えて現場に臨むことを信条としていた。自分にも人にも厳しいが、陰険な意地悪をしたり、反対に過度に依存したりもしない。嫌なことを言われたら受け流す。ごくわずかな親しい人を除いて、他人とは適度な距離をとって付き合う。「お互いの暮らしの中に、むやみに脚をふみいれようともしないし、求めあおうともしない」(『わたしの脇役人生』より)のは、自分のスタンスを保ち、かつ相手を下手に束縛しないための心配りだろう。芸能という華やかな世界に身を置きながら、彼女は自分の歩調を見失わなかった。それも、つつましい人並みの暮らしを愛した。
『わたしの献立日記』には、貞子が日々作った料理が記録されている。例えばある六月の夕食はこんな具合。「鯛のあら煮、なすのはさみ揚げ、貝柱、きゅうりのごま酢、豆腐の味噌汁」、七月のある日は「牛肉となすの煮もの、まだらの干物、さやいんげんのおひたし、豆腐、揚げ玉の味噌汁」。なんともおいしそうだ。彼女は毎朝その日の天候や気温に鑑みて献立を組み立て、仕事に出る前に下ごしらえを済ませていた。遅くなる日は、夫のための夕飯作りまでこなして出掛けたというから感心を通り越して、ただ驚く。買いものなどお手伝いさんに頼むこともあったようだが、インスタントや冷凍食品を使わず、これだけ手の込んだ支度ができるというのは、よほど手際がいいのである。
浅草に生まれ育った貞子は、幼い頃から当たり前に家事を手伝った。だから体がコツを覚えている。暇な日にゴボウや干し椎茸を細かく刻んで煮込んだ「すしのもと」を作っておけば、忙しいときでも酢飯に混ぜるだけで一品できる。食べ残しのパンの耳はパン粉に、梅酢にしたあとの梅の実は砂糖を加えてジャムにと無駄がない。こうした工夫は食のみならず。家はこざっぱりしていないと休まらないから、折々に掃除する。ドラマの台詞を繰り返しながら、庭の雑草を抜けば一石二鳥。家事は一番の美容体操と思って、楽しんでこなすのが彼女の流なのだ。
家事と仕事の両立は、多くの働く女性が抱える悩みの種だ。どちらも中途半端だと自己嫌悪に陥ることもままあるだろう。貞子ですら、音を上げそうになったことは幾度もあると書いている。全自動の電化製品も少なく、夫と家事を分担する発想も乏しい時代だからなおのこと。ただどうせやらねばならないのなら、不満たらたらの仏頂面でこなすより、面白がったほうが得、とその暮らしぶりに教えられる気がする。だからこそ彼女は、八十を過ぎてもピンシャンとして肌つやもよく、所作も粋に整っていた。なにより老いても笑顔が冴え冴えと美しかった。日々を慈しんできた健やかさが身の隅々にまで宿っていたのだ。
[日本経済新聞朝刊女性面2013年8月10日付]
※「ヒロインは強し」では、直木賞作家の木内昇氏が歴史上の女性にフォーカス。男社会で奮闘した女性たちの葛藤を軽妙に描きます。
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