池田蕉園 創作と夫を愛した絵師
ヒロインは強し(木内昇)
日本にはその時代時代の名画が数知れずある。ことに江戸期以降は、庶民までが役者絵や美人画といった浮世絵に親しむようになり、人気絵師が多く現れた。幕末に来日した欧米人は、気軽に売買されている浮世絵の芸術性の高さに仰天したという。
名だたる絵師を輩出してきた日本美術史だが、明治中期まで女流絵師の名は数えるほどしか登場しない。女性が絵を描いてもそれは、趣味の域だと選り分けられ、男性絵師と同じ土俵で語られることが少なかったためだ。
閨秀(けいしゅう)画家が日の目を見るようになったのは、明治四十年創設の文部省美術展覧会、通称「文展」からだ。優秀作なら性別を問わず出展でき、新聞各紙に詳細な評も載るため俄然注目を集めた。この文展第一回に「物詣で」を出展し、以降第十回の「去年(こぞ)のけふ」まで毎回入選を果たした実力派が、池田蕉園である。
幼い頃より画才があった。十六才で水野年方の門に入ると、着実に画壇での存在感を示していく。のみならず、彼女は憧れの人との恋も実らせた。同門の画家・池田輝方と十七歳のときに婚約したのだ。まさに順風満帆な人生。が、そんな彼女を、思いも寄らぬ出来事が襲う。
婚約者の輝方が他の女性と駈け落ちしたのである。さらにはこの顛末が、当時の新聞「万朝報」にすっぱ抜かれてしまう。わけもわからず醜聞の中に置き去りにされ、世間の好奇の目にさらされた彼女の傷心はいかばかりだったろうか。だが皮肉にも、この一件を機に彼女の絵は深みを湛えていく。物憂げな美人画を情感豊かに描き、西の(上村)松園、東の蕉園と言われるほどの名声を博すのだ。絵に打ち込むことで心の澱を浄化したのだろうか。手痛い失恋によって女心の機微を掴み得たのだろうか。
彼女を奈落の底に突き落とした輝方だが、なんと八年後、のうのうと舞い戻り、蕉園に求婚する。恐るべき図太さ。しかも蕉園はその申し出を受け入れるのだ。以降ふたりは画壇のおしどり夫婦として創作に励み、屏風などの共作にも意欲的に取り組む。
蕉園がそれほど輝方に惚れていたとも言える。でも恋慕だけのことなら、かえって彼の裏切りに拘泥した気もする。彼女には絵という決して裏切らない存在があった。自分に才能があることも知っていた。その人間的余裕が男を許したのではないか。恋というより慈悲の心で。
能のある女ほど、適度に男を立てて争わない。相手が怖いからではなく、面倒だからである。男のほうもそれと察し、度量と意地で己の仕事を全うする――これまであった暗黙の了解が、先日の都議会での野次なぞ見ると、消滅しつつあることに気付く。能のない男ほど、女を下に見て調子に乗っちゃうのだ。
ちなみに葛飾北斎の娘、応為(おうい)は絵師として一個の天才だが、絵を愛好する夫の作を容赦なくけなし続け、ついには離縁を申し渡された。個人的には、こういう女性も人間くさくて案外好きである。
[日本経済新聞朝刊女性面2014年7月5日付]
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