目指せ100杯 「めん都盛岡」、わんこそばに挑戦東北麺紀行(6)

岩手県は今でこそおいしい米どころだが、もともとはコメの生育に適さない土地だった。そのためヒエやアワなどの雑穀が多く栽培され、なかでもそばが好んで食べられていた。こうした中で、冠婚葬祭の時に「おもてなし」としてソバをたくさん食べてもらう習慣ができあがった。

現在のスタイルは昭和に入ってから

修学旅行でわんこそばを体験する子どもたちも多い(東家)

「わんこそば」と呼ぶようになったのはいつからなのか。明治時代には花巻市に「わんこそば」という名で提供する店があったという。ただ、当時はそばを小分けにして出すだけだった。お給仕さんが掛け声とともに次々とそばを投げ入れていく現在のスタイルになったのは意外に新しく、昭和に入ってからだ。

わんこそばは漆塗りのおわんで食べる。これを使うようになったきっかけは、盛岡出身の平民宰相、原敬だったといわれている。原敬は大のそば好きで、盛岡に帰ると「そばはわんこに限る」と言って食していた。

夫人はこの時に使う漆器のおわんを特注で作らせ、自宅には同じおわんが300組もあったという。原家の宴会でそばを食べた人たちが「何と豪華な食べ方だ」と感激。おわんでもてなす食べ方が広がったようだ。

戦後、盛岡のそば組合に加盟していた店主らの間で「みんなでわんこそばを売ろう」との声が盛り上がった。だが、当初はわざわざ店まで来てわんこそばを注文する客はほとんどいない。そこで各店の工夫が始まった。

何杯食べても均一料金

戦い済んで…105杯のおわんが積み上がった(東家)

何倍食べても均一料金、お給仕さんのテンポのいい明るい掛け声、素早くそばを投げ入れるパフォーマンス……。様々な創意工夫と、折からの団体旅行ブームが重なり、やがてわんこそばは全国区の盛岡名物になっていった。

東家の高橋専務は「これからは地元の人にもっと食べてもらえるように頑張りたい」と話す。東家本店では2階のわんこそば会場に上がる人はほとんどが観光客で、地元の人は1階で通常のそばを食べるケースが多い。

地元の人がわんこそばを食べるのは「遠来の客が来て、老舗に案内した時だけ」だ。しかし「それでいい」という声もある。もともとわんこそばは客をもてなす振る舞い料理なのだから。

(盛岡支局長 増渕稔)