預かるだけでなく「育てる」場に 安永愛香さん
「どろんこ保育園」経営者
埼玉県朝霞市、駅から20分歩いた川べりに「朝霞どろんこ保育園」はある。大きな起伏のある園庭では子どもが素足で走り回り、木に登り、ヤギやニワトリに餌をあげて遊ぶ。裏の田んぼで作業して、ザリガニを捕まえて、大声を出して遊んで日が暮れる。園児も先生も泥だらけ。時には教室にまでヤギが入り込んでしまう。古民家のような園舎の縁側には、手足や廊下を吹くための雑巾が並んでいる。子どもに何かあったらどうするの――。そんな安全清潔第一、やや神経質な風潮に挑戦するかのように、少し昔の元気でわんぱくな子どもたちが遊んでいたような環境がこぢんまり再現されている。
1998年に起業した。現在2つの株式会社を含めた3法人で55施設を運営し、2000人以上の子どもを預かる。「子どもには生き抜く力が必要。痛いことも、汚いことも、つらいことも。そのために保育はどうあるべきか、保護者と共に考えたい」。自身は大学在学中に結婚し、外資系金融機関に入社後すぐに出産した。その後、母として日本の保育の現状に感じた疑問が原動力になった。
当時の勤務先までは片道1時間。やっとの思いで夜10時まで預かり可の保育園を見つけた。当初は息子を見てもらえるだけで感謝していたが、迎えに行くといつも幼児向けビデオを見せられるか、一人おもちゃで遊んでいる姿に戸惑いを覚えるようになった。連絡帳に「木曜日なのでお散歩の日でした」と書いてあった。週1日しか外に出してもらっていないのかと悲しくなった。「歩けるようになったのでもっと散歩させてほしい」と頼むと、決まりですからとの返答。「誰のための保育なのか」「子どもを預けるだけでなく、育てる場所にできないのか」。「何かを変えたいという勢いだけでした」と笑いながら振り返るが、その思いを形にしようと、夫と貯金をはたいて駅前保育園を開設した。園児は2歳の息子だけだった。
前年に神戸連続児童殺傷事件、通称「酒鬼薔薇事件」が起きるなど、キレる中学生が話題になっていた。親ですら思春期の子どもにどう向き合えばいいのかわからなくなった時代。「人格の根本が出来上がってしまう前の段階で、面倒でつらいことが起きても逃げない心を育てなければ。たくさんの人と関わりあう環境を作らなければ」。そう決意した。「朝7時から夜10時まで、一時預かりでも構いません」。通勤ラッシュの駅でチラシを配り、自らの思いを伝えた。
子どもに土仕事をさせたい。そのために畑を借りて、駅前から出かけた。商店街を歩き、町の大人たちといろいろな話をさせたい。「知らない人に話し掛けられたら逃げなさい」という教えには納得がいかない部分もある。銭湯に行って瓶の牛乳を飲ませたい。ノスタルジーと思われても構わない。「全員に理解されなくても仕方ない。子どもの人格形成に必要なのは何かを考え続けるのが仕事」。規模を拡大するにつれて同業から「株式会社は営利目的」と不条理な批判を受けても、自ら信じる保育を貫いた。
朝霞どろんこは2007年に開いた初の認可保育園だ。母親の認可志向は根強い。「ど真ん中の市場で」目指す方向性をわかりやすく示した。保育方針はじわり共感を集め始め、今ではブリヂストンやネスレ日本など大手企業の事業所内保育園を受託。業界で一目置かれる存在となった。
保育は政治や規制と複雑に絡み合う業界だ。東京都内のタワーマンションの1階に認証保育園を開いた日、入園申し込みの長蛇の列ができて、定員は一気に埋まった。この場所に開園してよかったと喜んだ次の日、子どもはそれほどやって来なかった。多くの母親たちは認可保育園に入る時に有利になる認証園の在園証明が欲しいだけだった。入園金や保育料で経営としては成り立つ。ただ、働く女性も、思いを込めて準備を進めた保育園も、皆が消耗する勝者なきゲームに巻き込まれているようでむなしさが残った。「壁はある。でも、日本はこのままではいけないと思う」。一歩ずつでもいい。働く女性を取り巻く現状を動かしていきたいと考えている。
第2次安倍内閣が発足し、保育園不足の問題が再びクローズアップされている。起業から15年。これまでに出産を機に退社、育児都合で転職する女性を数多く見てきた。「子育てをする必要があったから、あれもこれもできなかったなんて、そんなのさみしすぎる。あなたが働く間は私たちが大切に、強い子どもに育てます。そう言える保育がしたい」。受け入れ数の数合わせではなく、人づくり。終わりのない仕事に挑む。
(馬淵洋志)
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