梅棹さんから不屈の精神を学びたいピンボケおやじ記者が行く

学術研究と並行して視覚障害者も含めたすべての人が楽しめるユニバーサル・ミュージアムの実現に向けて精力的に活動する広瀬浩二郎さんの講演を聞いて、今を懸命に生きる大事さを教えられた。

45歳。働き盛りの広瀬さんと違って、私は盛りを過ぎた56歳。おまけに網膜色素変性症という難病にかかっている。でも、今を充実させれば、定年後にもつながるはずだ。読書も文楽も人との語らいも、旅だって、定年後の楽しみは実は今の仕事に密接に関連している。趣味と仕事を一緒にするな、と上司に叱られるかもしれないけれど……。

ファイルで整理された資料や蔵書を前に語る生前の梅棹忠夫さん(2006年、大阪府吹田市)

広瀬さんが准教授をしている国立民族学博物館(大阪・吹田市)には、民博を創設した大立者がいる。梅棹忠夫さん。2010年に90歳で亡くなるまで顧問を務めた。今でも民博の「顔」であり続けている。梅棹さんは65歳のときに視力を失った。

1970年の大阪万博のグランドデザインを描き、万博跡地にできた民博の初代館長に。民族学者、比較文明学者として大きな業績を残した。

梅棹さんへの取材、目が見えないこと忘れた

晩年の梅棹さんに取材したり、話を聴いたりできたのは記者生活の財産だ。頭脳明晰(めいせき)。話のスケールの大きさと面白さは無類で、目が見えないことをしばしば忘れた。

梅棹さんの失明の話を取材しようと考えたのは、ハンディにひるまずに「知的生産」にまい進した気概を学びたかったからだ。

民博の梅棹資料室を訪ねて、「今でも梅棹先生の秘書です。今年で41年目」と言う三原喜久子さんと、梅棹さんが民博に採用して、ずっと薫陶を受け続けた民博名誉教授の小山修三さんに会った。

大阪万博の跡地にある国立民族学博物館(大阪府吹田市)

民博館長だった梅棹さんが突然、視力を失ったのは86年3月12日、65歳だった。朝7時に自宅で目覚めて窓の外を見ると暗い。夜明け前だと思い、電灯を付けても暗い。奥さんにもう明るいと聞いて異変に気付き、三原さんの家に電話した。「目が見えんのや」

大阪・中之島にあった大阪大学病院に緊急入院。入院当日で昼食は出ない。三原さんがウナギ弁当を買ってきて、梅棹さんが食べ始めた。箸が空間を泳いでウナギが挟めない。その様子を三原さんは今も忘れられないという。

ウイルス性の視神経疾患だった。7カ月入院したが回復しない。失明という事態と向き合って梅棹さんが書いた「夜はまだあけぬか」(講談社)に「泣いて、なんの役にたとうか。泣いて、事態が好転するものか」とある。本には深刻、不安などの言葉は出てくるが、嘆き節は皆無。

葛藤はあっただろう。だが、客観的にクールに病を見つめ、自らの身の処し方を淡々と書いている。粛々と現実を受け入れ、動じなかった。

「よほどのことがない限り、目では死なない」。そう考えて悲観しなかったのでしょう、と三原さんは言う。小山さんは「点字で文献が読めると思っていたのに、挑戦すると難しい。とうとう断念して、そのときはさすがに落ち込んでいました」と話す。