詳細に「誤字」を見ていくと、「あえて普通とは違う漢字を使っているのではないか?」という可能性が頭をもたげてくる。ところが、岩波文庫版「坊っちゃん」をはじめとした各種文庫では、「帰」は「返」に、「誤楽」は「娯楽」に校正されている。書店に並んでいる数種類の文庫を開いて見てみたが、漱石の直筆原稿を生かしてこれらの誤字を残したままにしているものは、記者が探した限り見つからなかった。

「誤字」に込められた意図

誤字だけではない。坊っちゃんには「赤シャツ」が1カ所だけ「赤しゃつ」と平仮名書きになっている箇所があるのだが、ここも各種文庫では「赤シャツ」と片仮名に校正されている。ところが、「赤しゃつ」と平仮名書きされているただ1カ所というのは、主人公の坊っちゃんが、無学で平仮名しか書けない「清」に宛てた手紙の中なのだ。

「坊っちゃん」が雑誌「ホトトギス」に掲載されたのは1906年(明治39年)のこと。日本初の近代的国語辞典として知られる「言海」が刊行されたのは1891年なので、わずか15年後ということになる。

辞書はいわば日本語の規範を示した書物。例えば「帰」と「返」の使い分けは、「言海」をはじめとするどの辞書にも載っている。しかし「言海」が刊行されてさほど時間がたっていなかったころは、「文章のプロ」である作家たちの間でも、日本語の規範に沿おうという意識がまだ薄かったのかもしれない。

辞書的な規範にとらわれない表記には、作家の自由な発想が潜んでいることもある。明治・大正時代よりも厳格な言葉のルールに慣れ親しんでいる現代人には誤字と思える表記も、実は作家による「計算ずくの誤字」である可能性もある。文学作品に現代人の感覚でむやみに校正を入れると、むしろ改悪になっ てしまう恐れもあるわけだ。ただ、どこまでが「計算ずくの誤字」で、どこからが書き損じなのか。それを見極めるのはとても難しい。

この季節、秋風にさそわれて読書にふける人も多いはず。「誤字」の数々に秘められた意図を推察しながら、改めて漱石作品を読み返してみるのも面白いだろう。=敬称略

(山本紗世)

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