「あした学校へ行ったら、一銭五厘〈返〉して置こう。おれは清から三円借りている。その三円は五年経った今日までまだ〈帰〉さない。〈返〉せないんじゃない、〈帰〉さないんだ。清は今に〈帰〉すだろうなどと、かりそめにもおれの懐中をあてにはしていない。おれも今に〈帰〉そうなどと他人がましい義理立てはしないつもりだ。こっちがこんな心配をすればするほど清の心を疑ぐるようなもので、清の美しい心にけちを付けると同じ事になる。〈帰〉さないのは清を踏みつけるのじゃない、清をおれの片破れと思うからだ」

夏目漱石作品に登場する“誤字”や当て字
作品中の表記現在の一般的表記は…
商買商売
借す貸す
辛防辛抱
引き起し引き越し
専問専門
口を聞く口を利く
蚊弱いか弱い
寸断寸断ずたずた
迷子迷子まごまご
偽病仮病
森としいんと
派出派手

(注)上の5つは「坊っちゃん」の直筆原稿の表記。それ以外は漱石の他作品で校正後も残っている表記。

これきりの短文なのに、「帰」と「返」が混在している。確かに、単なる誤字として片付けるのは少し無理があるような気がする。

漱石など日本文学の校訂研究で知られる山下浩の著書「本文の生態学―漱石・鴎外・芥川」(日本エディタースクール出版部)によると、この「誤字」は明らかに漱石なりの意図に基づいた使い分けだという。

読み解くヒントは末尾にある「清をおれの片破れと思うからだ」の一文。坊っちゃんにとって、清から借りた3円は清の分身にひとしい「片破れ」なのだ。だから、物のように「返す」といわず、人のように「帰す」を使いたかった。山嵐から借りた1銭5厘と、清から借りた3円が、坊っちゃんの中で明確に区別されており、だからわざと「帰」と書いたのではないか、というのだ。

文庫本は「修正」済み

同書は、他にもこの種の含みのある漱石の「誤字」をいくつか指摘している。例えば、「誤楽(娯楽)」という言葉。坊っちゃんが娯楽という言葉を口にするときは、漱石は必ず「誤楽」と書く。坊っちゃんが気取り屋の教頭、赤シャツを皮肉ったり批判したりするときにだけ使われる言葉だ。

「すると赤シャツがまた口を出した。『元来中学の教師なぞは社会の上流に位するものだからして、単に物質的の快楽ばかり求めるべきものでない。(中略)何でも高尚な精神的〈誤楽〉を求めなくってはいけない……』(中略)あんまり腹が立ったから『マドンナに逢うのも精神的〈誤楽〉ですか』と聞いてやった」

赤シャツの「誤楽」を鼻で笑う坊っちゃんの姿が目に浮かぶようだ。もとの文章の中で改めて読んでみると、「娯」をわざと「誤」にすることで、痛烈な皮肉を表現する、漱石流のウイットだったとも思えてくる。

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