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「凸」の書き始めは縦か横か 辞書で違う筆順のナゾ

2012/10/23

漢和辞典をいくつかめくっていて驚きました。辞典によって、筆順(書き順)が違う漢字があったのです。たとえば凹凸レンズの「凸」の字。この筆順、ある辞典は縦棒から、別の辞典では横棒から始まっているのです。タテとヨコ、いったいどちらから書くのが正しい書き方なのでしょうか。探ってみると、漢字の筆順にまつわる意外な事実がわかってきました。

■公的な基準は存在せず

凸の筆順を示す辞書。右は新選漢和辞典(小学館)、左は新漢語林(大修館書店)

記号や絵文字のように見えますが、凸は中学校レベルで学ぶ立派な常用漢字です。この凸の筆順を、左上の縦棒から始める「タテ派」の漢和辞典は、新明解現代漢和辞典(三省堂)、新漢語林(大修館書店)など。一方、左上の横棒から始める「ヨコ派」は新選漢和辞典(小学館)、小学漢字新辞典(旺文社)などでした。

どちらが正しい筆順なのでしょうか。実は「どちらもあり」なのです。

漢字の筆順については、内閣告示によって定められている常用漢字や現代仮名遣いとは違い、公的な基準は存在しません。唯一、公的な関与があるものとして挙げられるのが、50年以上前に出版された「筆順指導の手びき」と題する100ページ強の小型本です。

これは、1958年(昭和33年)に当時の文部省(現文部科学省)が小学校教師向けに作成した筆順指導の「マニュアル」です。筆順の大原則と、小学生に学ばせるよう指定した当時の教育漢字881字について、筆順を列記しています。

凸は教育漢字には含まれなかったので、筆順はこの手びきには載っていません。何かよりどころがあるとすれば、手びきに書いてある筆順の大原則だけ。その大原則とは2つあり、「上から下へ」そして「左から右へ」です。各漢和辞典では、881字以外の漢字にもこの大原則を当てはめて類推しながら筆順を記しています。

凸の字は、原則の「上→下」「左→右」のどちらをとったらよいのか微妙です。どちらをとっても原則通りともいえ、辞典によって筆順が違っても、それはそれで「あり」というわけです。

ところで、漢和辞典のなかには、この881字に含まれる漢字であっても、複数の筆順を載せているものもあります。旺文社の「漢和辞典」では、「上」は2通り、「必」や「発」はなんと3通りも筆順があります。でも小学生のときに習った筆順は、たしか1つの漢字には1つだけだったはず。いったいどういうことなのでしょう。

■坂田三吉は横線7本

漢字は紀元前14世紀ごろの甲骨文字と呼ばれる根源までさかのぼると、筆順などなかったとみられています。人々の字の表現手法が毛筆だった時代から、自然な筆の運びを求めて、さまざまな筆順が存在してきました。長い歴史のなかで自然にできあがってきたもので、1つの字に対して形が美しく書きやすいと考えられる筆順が複数存在し、書家によって、また市井の人々それぞれに自己流の筆順がありました。

天才棋士の坂田三吉の半生を阪東妻三郎が演じた映画「王将」(48年)。明治から大正時代にかけて活躍した三吉が、自分の名前をどんな筆順で書いていたかがわかるエピソードが紹介されています。将棋大会の受付で「三吉」と名前を書く際、上から同じ長さの横棒を7列書き、次に4本目と5本目の横棒の真ん中に縦棒を入れ、残りの2本の横棒の右と左を縦棒でつなぎ口の形にして完成させるというユニークな筆順です。

しかし戦後になり、漢字がいわゆる旧字体から新字体に移行し、現在の常用漢字の基になる当用漢字が決まるなど、漢字の新政策がスタートした「漢字革命」ともいうべき時期を迎えます。その際、「なんでもあり」の筆順指導では、教育現場が混乱するとの問題提起が官僚たちの間で起こったようです。

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