「石器に関する材質の研究は黒曜石かそれ以外、というほど黒曜石を除けばほとんど進んでいない。形態の研究は盛んだが、素材そのものに迫るアプローチも歴史的事実を解明するのに重要」
上掵遺跡での巨大磨製石斧発見から50年となる昨年、詳細な調査を行った明治大学黒耀石研究センターの中村由克客員教授はこう話す。
秋田県南東部。岩手県と宮城県に境を接する奥羽山脈の山深い東成瀬村で1965年、縄文前期に約500年間営まれたとみられる集落跡の東端に、光沢のあるオリーブ色の磨製石斧4本が刃先をそろえて西を向いた状態で発見された。
石斧は木々の伐採を主な用途として縄文時代に入るころから大量に作られるようになった。大きく分けて2つの作り方があり、素材の石をハンマーで割りながら形を整えていく打製と、打ち割った後に砥石を使って丹念に磨いて仕上げる磨製で、上掵遺跡のものはとりわけ丹念に磨き上げられた磨製石斧だ。
最も大きいのは長さ60.2センチ、幅10センチ、厚さ4.6センチ、重さは4.4キロ。最も小さいのでも長さ32センチ、幅8.6センチ、厚さ4.7センチ、重さ2.3キロあった。
石斧は文字通り石でできた斧(おの)である。木の柄をくくりつけるなどして使用したとみられるが、柄の部分は普通、腐食してしまい発見されないため、石の部分を指して石斧と呼ぶ。長さ15センチ程度のものが一般的で、30センチを超える大型は限られているものの、北海道南部から北東北に多く分布することが知られている。
これまでに青森県五所川原市で長さ49センチ、岩手県盛岡市で47センチなどがみつかっている。海外では韓国では50センチ以上の石斧がみつかっているが、やはり大型があるパプアニューギニア同様、厚さが2~3センチと非常に薄いものが多いという。
上掵のこれほど大きな石斧は1本でも貴重だが、4本そろって出土する希少さは格別で、88年に国の重要文化財に指定された。石の素材については、一般的に大型の磨製石斧は緑石凝灰岩に偏る傾向があり、北海道から東北地方にかけてどこでもみつかることなどから詳細な調査を経ずに緑色凝灰岩として登録された。
今回、顕微鏡による観察を中心に光沢度ほか比重測定、磁性テストなどが初めて実施された。その結果、4本いずれにも緑色岩に特徴的な針状の結晶を持つ緑閃(せん)石を含んでいるのが認められた。
また、全体に粒が細かく均質で堅く、他の石器に使用される石材よりも比重が1~3割大きい。細粒部と粗粒部が交互に表れ、緑色を基調とする鈍い金属製の光沢があることなどを確認。4本とも北海道日高地方の沙流(さる)川支流の額平(ぬかびら)川上流だけにある緑石岩、いわゆるアオトラ石製と結論づけられた。
アオトラ石は縄文時代前期から中期にかけての最大級の集落である三内丸山遺跡(青森市)でみつかった石斧の多くがアオトラ石製であったことが知床博物館(北海道斜里町)の合田信生学芸員や、大阪府立大の前川寛和教授(岩石学)の研究で明らかになり、近年関係者らの間で注目を集めるようになった。
中村客員教授の調査によると、三内丸山で報告されている磨製石斧191点のうち、実に59%がアオトラ石製であることが分かった。過半数を占めるほど素材として好まれていたわけで、未報告の石器の数もまだ相当数ありそうという。
森林に生きる人々にとって、森を切り開き家を建てる道具として石斧の果たす役割は極めて重要だった。石斧は何よりも衝撃に対し丈夫であることが肝心で、木を切り倒すために重くて密度が高いアオトラ石が素材として選ばれた大きな要因だったとみられる。ヒスイに代表されるように緑色の鉱物は古代人に特別に珍重されてきたという面も大きいようだ。
石斧を製作する際、素材となる大きな板状の石に、硬い石でこすりながら溝をつけ、薄くなった部分を折り取る「擦り切り技法」が用いられた。アオトラ石は青緑と灰色が交互に繰り返すしま模様に特徴がある。「しまの境界部分で切り取ることで規格的に大量生産しやすかったのではないか」と秋田県立博物館の吉川耕太郎学芸主事は形状などの検討から分析する。
吉川学芸主事によると、縄文時代での「擦り切り石斧」の製作加工遺跡は北海道南西部と下北半島にほぼ限定して分布している。つまり、大きくて重量のあるアオトラ石の原石はまず原産地の額平川周辺から北海道の千歳・苫小牧周辺の南西部か、下北半島に運ばれて「製品化」。その後に各地域に持ち込まれたと考えられる。「大型の石斧作りに従事する製作者集団もいたのではないか」と吉川学芸主事はみている。
北海道南西部から北東北にかけての地域は縄文前期のころ共通の「円筒土器文化圏」に属していた。津軽海峡を挟んで様々な交流があったことは分かっている。だが、それにしても産地が限定されるアオトラ石の石斧が長距離移動し、海を渡って三内丸山遺跡にもたらされたことは驚きをもって迎えられた。
これに対し、上掵遺跡は主として秋田市から盛岡市、宮城県宮古市と東西を結ぶライン以南の東北地方南部の「大木式土器文化圏」に属している。北海道の額平川上流からは直線距離で約400キロ、三内丸山遺跡からでも約200キロ近く離れている。現代でも物資の運搬はもちろん、移動だけでも大変な労力と時間を要する距離だ。
時期によって変動はあるが、おおむね北緯40度線を目安に異なる文化圏が併存していたことが分かっている。「南北を走る奥羽山脈で東西に分断されるのではなく、単純に南北でラインがある」と吉川主事は説明する。
そんな中で、南側の上掵遺跡にはわずかだが円筒式土器がみつかっている。石斧も円筒式土器とともにもたらされたのだろう。中村客員教授らは盛岡市の日戸遺跡でみつかった長さ47センチの石斧もアオトラ石製ではないかとみている。
アオトラ石の石斧はいったいどこまで運ばれていたのだろうか。中村客員教授は「これまでまったく調査されてこなかったが、かなり南にまで運ばれていたのではないか。関東でもみつかる可能性がある」と大胆に予測する。
上掵遺跡の石斧はいずれも丹念に磨き上げられており、大きさや重さ、優美さなどから判断すると実用品というより何らかの儀式に用いられた可能性がある。文化圏を大きく越え、アオトラ石はなぜ広範囲に流通したのか。謎は深まるばかりである。
(本田寛成)