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私の履歴書復刻版

終戦――焼け跡行商 わが原点 ヤミ市攻勢、同業者も退散 京セラ名誉会長 稲盛和夫(5)

2016/4/21

1945年(昭和20年)4月、鹿児島中学に入学した。1年遅れの中学だが空襲が激しく、勉強する雰囲気ではなかった。B29爆撃機から焼い弾が雨のように降ってくる。特に、6月17日の大空襲は鹿児島市の大半が焼け、「市民の命日」とまでいわれている。この時は奇跡的に焼け残った我が家も8月には消失した。

高射砲が応戦することもなく、劣勢は明らかだった。私にとって終戦は焼い弾から解放されることだった。戦争は終わったが、家も印刷機も失って生活苦がのしかかってきた。父は塩を、母は着物をヤミで売って米に換えた。結核は必死に逃げ回っているうちに退散していた。ゆっくり養生していたら治っていなかったかもしれない。

体が復調して元気になると勉強にも身を入れるようになった。もう惨めな目にはあいたくないし、文武両道を極めようと思い立った。成績の悪かった数学を中心に小学校の5、6年の教科書まで引っ張り出してやり直した。これ以来、数学は逆に得意科目になった。ケンカは相変わらず盛んだった。

ささいなことでクラス一の暴れん坊に因縁をつけられたことがある。そのころはやっていたセルロイドの下敷き飛ばしで、自分にあたりそうになった、というのだ。全員が見物する中、校舎の裏で対決した。だれも私の負けを確信していた。なにしろ体格がまったく違う。

ここは先手必勝とばかり、いきなり思い切り飛び上がって顔面に一発見舞った。こちらはその反動でひっくり返ったぐらいだ。鼻血が吹き出し、逆上してドスを抜く騒ぎになった。「素手でこんか」とにらみあってるところへ、上級生が聞きつけてきた。生意気なやつらだ、と二人ともさんざん殴られた。勇気は男子第一の美徳というが、荒々しい土地柄ではある。

高校時代。親友・川上満洲夫君(右)と

親友もできた。その一人、川上満洲夫君(元クボタ常務)の家はまことに優雅であった。「父がドイツに留学した時に買った」という蓄音機が応接間に置かれ、きれいな曲だと「ツィゴイネルワイゼン」をかけてくれた。バイオリンの音色に陶然となりながら、世の中にこんな文化的な家庭があるのかと感心したものだった。野球に親しんだのも川上君の影響だ。私はピッチャーで毎日、暗くなるまでボールを追っかけた。

48年、鹿児島中学を修了した。ちょうど学制改革で新制高校への移行期だった。まわりがほとんど進学と聞いて迷った。家族は多いし、家計のひっ迫もわかっている。「お前も働け」という父に、「実家のあの土地を売ったらいい」と抵抗した。郊外の父の実家にわずかでも土地があるのを知っていた。

卒業したら必ず就職するからと押し切った。鹿児島中学、市立高等女学校、市立商業学校が統合して鹿児島市高等学校第三部となり、希望者はそのまま進学した。2年後に玉龍高校に転校、私はその第1回の卒業生となる。

高校では勉強に励んだが、野球熱も相変わらずだった。米の行商までしていた母は「苦労して高校にいかせたのに遊びほうけて」と怒りだした。母のこの一言で野球をきっぱりやめ、次の日から紙袋の行商を始めた。

父が内職で作った紙袋を自転車に積んで市内を売り歩くのである。菓子屋に八百屋、ヤミ市などを回った。どこも品薄で飛ぶように売れ、あまりの繁忙に中学を出たばかりの子を雇った。私の一気の攻勢に福岡からきていた同業者が撤収したと聞いた。私の事業の原点はこの行商にある。3年になった時点で従業員込みでその仕事を兄に渡し、勉強に専念することにした。

この連載は、2001年3月に日本経済新聞に連載した「私の履歴書」を再掲したものです。毎週月曜日と木曜日に更新します。第1回はこちら
稲盛和夫氏(いなもり・かずお)
1955年鹿児島大工卒。59年に京都セラミック(現京セラ)、84年には第二電電(旧DDI)を設立。2005年から現職。「盛和塾」で経営者指導に力を注ぐ。最近の活動は「稲盛和夫OFFICIAL SITE」(http://www.kyocera.co.jp/inamori/)に詳しい。84歳。

稲盛和夫のガキの自叙伝―私の履歴書
(日経ビジネス人文庫)

著者 : 稲盛 和夫
出版 : 日本経済新聞社
価格 : 669円 (税込み)

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