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「私の履歴書」を読んで

今も昔も変わらぬ異国で直面する「壮絶」さ 春香クリスティーンが読む「竹鶴政孝の履歴書」

2016/4/30

1956年から50年以上続く日本経済新聞朝刊文化面のコラム「私の履歴書」は、時代を代表する著名人が1カ月の連載で半生を語る。かつて書かれた「私の履歴書」を若い世代が読んだら、響く言葉はあるのだろうか。今回は、1968年に掲載したニッカウヰスキー創業者の竹鶴政孝さんの「私の履歴書」を、スイス・チューリヒ出身のタレント、春香クリスティーンさんに読んでもらった。
竹鶴政孝氏

竹鶴政孝 たけつる ・まさたか】 1894年生まれ、広島県賀茂郡出身の日本の実業家。ウイスキー製造者、技術者。会社経営者。ニッカウヰスキーの創業者であり、「日本のウイスキーの父」と呼ばれる。1979年死去。

「私の履歴書」第1回

春香クリスティーン はるか・くりすてぃーん】 1992年生まれ。スイス・チューリヒ出身。父は日本人で母はスイス人のハーフ。株式会社ホリプロ所属。高校2年生の秋に単身来日。ドイツ語、英語、フランス語、日本語の4カ国語を駆使する。趣味は国会議事堂のグッズ集め、国会議員の「追っかけ」など。

■「変わりたい」と思ったのに

――私の履歴書から
私は人一人いないこの海岸にときどき行っては、遠く海のかなたをながめながらたたずんだ。こんなに苦労して勉強して帰っても、結局日本にはウイスキーづくりのよい環境はないのではないかという焦燥と不安、それにできるだけ早くウイスキーづくりの技術を習得しなければならないという責任感が、ホームシックと重なり合って私は声を出して思いきり泣いた。北海の夜の空にはオーロラが美しく冷たく輝いていた。(竹鶴政孝「私の履歴書」第11回)

竹鶴さんは、ドラマの「マッサン」で一気に有名になったように感じます。まず、とにかく「壮絶だな」というのが読んでいちばんに感じた感想です。日本からスコットランドにウイスキーの勉強をしに来て、全部吸収して帰らないといけない、という熱意がこの箇所にあふれていると思いました。

春香クリスティーンさん

私は、高校2年の途中、16歳の時にひとりで日本にきました。とにかく、スイスから逃げ出したかったんです。たとえば、スイスでは物事を直接的に言う人が多くて。私はそういうのが苦手で、いじめられていたこともありました。当時は本当に暗い子だったんです。

日本にきたばかりの時は、せっかく来たからには「自分が変わりたい」という思いがありました。でも、1年くらいたったときに、何も変わっていない自分に気付きました。当時は、年末年始もポツリとひとりぼっちで学生寮の部屋にいました。何しているんだろう、って泣いたこともあって。

そこからはとりあえず1日1回外に出ようって。日本のカフェをめぐったり、ひとりでカラオケに行ったり。日本にいることを感じないと、と思いました。竹鶴さんとは、目標の高さが全然違っても、きっと色々な不安やモチベーションに対する葛藤を一人で考えていたんだろうな、と感じました。

■家庭の中に3つの国

さらに驚いたのは、英国から日本に手紙が届くのに2カ月もかかるということです。今の時代なら、2ヵ月後の自分は何をしているか全くわからない。当時は、2カ月前に届いた手紙をどういう気持ちで受け止めていたんだろうって。今みたいに年末年始に少し帰る、ということもできない。

国際結婚に対する理解にも、時代の差を感じます。ただ、異文化が共存するという大変さは今でも少しあるのではないでしょうか。私は母がスイス人で父が日本人なのですが、国際結婚をした両親を見ていて、大変だなと思ったことはたくさんあります。

――私の履歴書から
国際結婚の場合は、今でも周囲の反対や心配を受けるであろう。それが人工衛星の飛ぶ今の現代と違って相手の国情や生活様式がまるきりわからないころのことである。そればかりか当時日本と欧米とでは、食生活、風俗、習慣があまりにも違いすぎていた。(竹鶴政孝「私の履歴書」第15回)

たとえば、父は私よりも長くスイスに住んでいるはずなのに、いまだにドイツ語を話さないで英語を話すという頑固さです。私は、子どものころは人見知りでしたし、父が現地の言葉を話さないというのは本当に嫌でした。地元には、英語を日常的に話している人は基本的にはいませんでした。常に外国人というか観光客に近いですよね。父のことは好きですが、地元に本当になじまないな、って。

母も、何年か日本にいたこともあったのですが、そのころの話を聞いていると辛かったんだろうなって。梅雨で靴が腐って嫌になったとか、アップルパイを作ろうとしたのに日本の梨はりんごに形が似ているから、間違えて梨を買ってしまって、全く味が違って泣いたとか。最終的には私を妊娠して、病院にいったものの言葉も通じないし、結局はスイスに帰ってしまいました。その後、スイスで私が生まれました。お母さんは日本語を話せないし、お父さんはドイツ語を話せない。よく夫婦でいるなって。

今はネットもあるけれど、竹鶴さんの時代は異国に対する知識や理解度も全然違います。だから、リタさんと竹鶴さんはなんであんなに仲の良い夫婦として成り立っていたのだろう、と読んでいて不思議に思いました。

私のスイスの家では、両親の会話はお互いに英語なので、家庭の中は常に3つの国でした。ここはどこの国なんだろうという感じでした。子どもとしては、自分はどこの国の子なのだろう、どこが私の故郷なんだろう、って。ハーフの人ってそういう壁に直面することって多いと思います。

日本に来てからも「どこの国の人ですか」とか、「日本人ではない」というような感じで話しかけられると最初はショックでした。私は自分を「日本人」と思っていても、回りからは「違う」という目で見られているんだな、私は永遠に日本にもなじめないのかな、って当時は寂しかったですね。

でも、こういう家庭環境で育ったからこそ、日本とスイスという2つの文化を味わうこともできました。スイスになじみすぎていたら、きっと日本にもなじめなかった気がします。今では、スイスも日本も、両方ともが自分の故郷って思えたほうが、「両方属さない」と決めるよりもお得かなって。

■入社一年足らずで外国に

竹鶴さんの履歴書の中に、何度も「阿部社長」という言葉が出てきます。竹鶴さんが卒業して入社した「摂津酒造」の当時の社長です。その社長が、竹鶴さんにこんなことを言います。

――私の履歴書から
「竹鶴君、君はスコットランドに行ってモルトウイスキーを勉強してくる気はないか。わが社のウイスキーは今は売れているが、いつまでもイミテーションの時代ではないし、品質にも限界がある。君にその意思があれば本場の英国に留学してその技術を習得してきてほしいのだが」(竹鶴政孝「私の履歴書」第6回)

当時、竹鶴さんは入社1年足らずです。他にも先輩とかはいたはずなのに「いってこい」って行かせるという。社長の信頼の度合いもすごいと思いますし、竹鶴さんがいかに熱心に仕事に没頭していたかを感じました。没頭していると、人は信頼を勝ち取って、新しい信頼を得られるんだなって。

よく、経験を積んだらできるとか、言いますよね。日本は、下積みをしてからという考えや、年功序列という考えがあると思っていました。もちろん、社内にいろんな不満をもった人はいると思いますが、こんな若くてもひたむきに頑張っていたらチャンスがくる。希望を持てるようなフレーズだなとおもって。

芸能界は、一日一日で大きく変わるし、一日で全部を失うこともあれば、一日で何かが爆発的に受けたら変わることもあります。私は、最初にお笑い芸人さんのネタを外国語でさせてもらいました。具体的には、お笑いコンビの「ザブングル」さんの「カッチカチやぞ!」をドイツ語で、小島よしおさんの「そんなの関係ねぇ」をフランス語でやらせてもらいました。

その時のオンエアがあったおかげで次々に仕事が決まって。1回の出演がこんなに響くことに驚きました。チャンスを生かせるように、竹鶴さんのように自分自身ももっと頑張らないと、という気持ちになりました。

(聞き手は雨宮百子)

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