「よそ者」拒まず 福岡・天神、九州一繁華街への道
小売り業は競争と協調
百貨店や商業ビルが立ち並ぶ福岡市・天神。九州一円だけでなくアジアからも客が集まり、にぎわっている。だが天神は歴史的には武士の町「福岡」に属し、戦前までの商業の中心「博多」とは異なる。どのようにして商業施設が集積し、九州一の繁華街に育ったのか。その歴史を探った。
黒田家が福岡城を築いた江戸時代、天神には上級家臣の屋敷があった。明治時代の廃藩置県の後、天神は福岡県庁などがある官庁街に。福岡市博物館市史編さん室の八嶋義之さん(40)は「屋敷はもともと藩の土地と建物。『公有地』として活用しやすかったのでは」と話す。
那珂川を挟んで博多部(現在の市営地下鉄中洲川端駅、呉服町駅の周辺など)と向かい合う天神は、福岡城と博多の中間に位置する。同編さん室の鮓本高志さん(40)は「福岡と博多をつなげる政治的な意図があったのでは」と推察する。
発展の契機は1910年の博覧会「九州沖縄八県連合共進会」の開催だ。天神を東西に貫く堀が埋め立てられ、2つの路面電車が天神で交差した。その1つを立ち上げた松永安左エ門によって、24年に現在の西鉄天神大牟田線が開通。39年までに天神と県最南端の大牟田市が鉄道で結ばれた。
さらに博多の呉服商、中牟田喜兵衛が36年、松永の誘いで九州初のターミナル百貨店、岩田屋を開業。慣れ親しんだ博多の呉服町も候補地だったが、天神の将来性に懸けたとされる。
福岡大空襲で福岡市は大きな被害を受けた。戦後、真っ先に立ち上がったのが天神の新天町商店街だった。戦災にあった博多商人らを中心に46年秋までに約80店舗が開業した。
「切っても切れない関係だ」。新天町開業と同時に天神へ移った洋傘店の3代目、柴田嘉和さん(69)がこう話すのが岩田屋と新天町の関係。博多にルーツがある両者を中心に結成された都心連盟(現・都心界)は宣伝活動を一緒にするなど、天神を商業の中心にするとの思いで手を結んだ。
天神の商業集積に詳しい福岡大学の二宮麻里准教授は「通常は大型商業施設と商店街の対立が多く、全国でも珍しい」と強調する。
55年には天神のあらゆる業種の約100社により天神町(天神)発展会が発足。都心界も加わる。街灯整備などを訴える中、61年に完成した福岡ビル建設に向けた要望は画期的だった。
岩田屋の他に天神交差点に面していたのは店じまいの早い銀行や郵便局で、街の顔なのに夕方は人通りが減った。近くの商店街「天神市場」のビル化を機に、発展会は「天神交差点を東京・銀座のようににぎやかに」と要望。郵便局と福岡銀行を巻き込んだ土地の三角交換を実現し、天神市場の一部が入る福岡ビルが岩田屋の向かいに完成した。
戦後の天神で鉄道、バス、商業施設などの事業を展開してきた西日本鉄道の広報課アーカイブ担当、吉富実課長は福岡ビル建設が「繁華街・天神の基礎になったのは間違いない」とみる。
70年代に入るとダイエー旗艦店開業や呉服町にあった博多大丸の移転など天神進出が相次ぐ。「流通戦争」が叫ばれ、商業の中心地としての認識が定着した。
交通網整備も後押しした。西鉄は65年頃までに中長距離バスや市内のバス路線を天神中心に整備した。
その後もソラリアプラザや福岡三越、福岡パルコなどが生まれ、いずれも都心界に加わった。「天神では新しい商業施設の誕生に反対したことがない。競争があるから成長できる」(柴田さん)。この40年間で1.5倍になった福岡市の人口増も成長の源だ。
天神発展会は発展的に解消し、「We Love天神協議会」に。イベント企画から清掃まで、天神の魅力向上に取り組んでいる。
関係者が口をそろえるキーワードは「競争と協調」。幾重もの流通戦争を繰り広げながら、天神のために協調する。「よそ者を受け入れ、皆で街を盛り上げる風土は天神ならでは」(二宮准教授)。天神流の街づくりの思想は他地域でも発展のヒントになりそうだ。
(西部支社 根本涼)
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