ギャラの不払いは40年間で何千万円かありましたロック歌手・作曲家・俳優 宇崎竜童

日経マネー

撮影/大沼正彦
撮影/大沼正彦
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──最近は上司がちょっと厳しい指導をするとパワハラと言われるような時代ですが、宇崎さんはこんな世相をどうお感じですか。

ちょっと過保護で生ぬるくなっているかもね。もちろんいじめはいいと思わないけど、僕自身も中学、高校では相当しごかれてきて、それが今につながってますから。

僕の出た明大中野(明治大学付属中野中学・高等学校)は、今は進学校ですが、昔は先生がムチを持って歩いてるような荒っぽい学校でね(笑)、授業中に1回もたたかれない生徒はいないくらい。ビンタも鉄拳も普通にありました。

吹奏楽部の先輩たちにもそういうスパルタ的なのが多くて、殴られたり蹴られたりで大変でしたよ。ただ、そこで鼻血を流しながら鍛えられたので、ラッパ(トランペット)も吹けるようになったし、譜面も読み書きできるようになった。今思えば有り難い鉄拳だったわけですよね。

うざき・りゅうどう 1946年、京都府生まれ。1973年にダウン・タウン・ブギウギ・バンドを結成しデビュー。「スモーキン・ブギ」「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」など数々のヒットを生む。また作曲家として現在まで約5000曲を作曲、多数のアーティストへも楽曲を提供。特に山口百恵には妻の阿木燿子と共に約70曲を提供し、全盛期を支えた。映画『曽根崎心中』『TATTOO〈刺青〉あり』などで俳優としても活躍。映画音楽では『駅-STATION』(82)、『社葬』(89)などで日本アカデミー賞優秀音楽賞受賞。他アーティストのプロデュース、自身のライブ活動の他、映画・舞台音楽の制作など幅広く活動中。

バンドの世界にも昔はボーヤというのがいて、時々プロから小遣いをもらうだけで、無給で楽器を運んだりしてました。そうやってプロを身近で見て学び、いずれはプロになるための一種の徒弟制度だったけど、今は「無給なんてかわいそう」とボーヤはいなくなり、ローディーという専門職を雇うようになってます。

──大分変わっちゃいましたね。

若者もそう。僕は明大の軽音楽クラブのOB会長に任命されたのをきっかけに、現役の学生たちと接点ができたんです。彼らと一緒にお茶の水の街づくりをやり、それを通じて学校に恩返ししたいという気持ちもあってね。ただ、彼らは真面目で成績もいいんだけど、政治には無関心を通り越して無知。安保法案の騒動で「学生がバリケード作って」と言っても、バリケードが何なのか、なぜ法案に反対するのかが分かんないんですよ。彼らの第一の興味はどういう会社に入れるか、ですから。聞けば3人に2人は1人っ子で、兄弟げんかの経験もない。親の期待を一身に受け、就活で有利になると信じてとにかくよく勉強する。でも、広告代理店で面接官やってる奴に聞いたら、大学の成績表なんかで採用は決めないっていうんだよね。

──良い子でも視野の狭い学生が増えるのは、日本にとっても損ですよね。宇崎さん自身の就活は?

親は安定したサラリーマンになるのを望んでたようですが、僕は自分に何ができるか分からなかったので、いろんなアルバイトを1カ月ずつ体験してみたんです。50kgの荷を担いでトラックに積む肉体労働から、秋葉原デパートでダサいカフスボタンを売る宝飾品販売まで。アイビーボーイだったから、自分が全く欲しくない真珠や虎眼石のカフスを人に勧めて売るのは辛かったですね(笑)。「これはとても仕事にはできねえや」と。

商品取引の会社でも1カ月働きました。何の会社か知らずに行ったので「ケイ線って何?」って感じで。「お前は個人宅を回って生ゴムと生糸と大豆を売ってこい」「どうやって売るんスか」「口八丁手八丁だ」。当然売れなくて部長に叱られまくって、辞めましたけど(笑)。

そのうちに芸能プロダクションをやっている義理の兄が、親父に「奴をウチの会社に欲しいんだけど」と言ってくれたんです。この姉の旦那さんは大学時代からベース弾いて米軍キャンプにも出入りしてたような人で、僕のことも小さい頃から見ていて、音楽好きで楽譜も読めるというのを知ってた。また、その会社で音楽出版社を作る計画もあったので、僕が法学部だというのを「アイツは著作権法とか知ってるに違いない」と、良い方向に誤解してくれたんですね(笑)。

──その会社でブルー・コメッツのマネジャーなどを務めつつ、ご自身でも仲間を集めてダウン・タウン・ブギウギ・バンドを結成されるわけですね。

もともと僕は裏方志向で、作曲家にはなりたかったけど、自分はステージに立つ人間じゃないと思ってた。当時そこにいた鹿内孝さん、尾藤イサオさんたちと比べてみても、皆さんにあるサムシング・エルス(何か)が自分にはない気がしたしね。でも当時、「お前の歌はお前が歌わないと意味がないんじゃないの?」と言ってくれた人がいた。それで始めたんです。

若い時は裏付けもないくせに過剰な自信に満ちあふれてるから、「絶対売れるからよ!」と言って、見ず知らずの人ばっか集めてね。単にギターが弾ける、ドラムがたたけるっていうだけで面談して、音も聞かずにメンバーに入れたんです。僕が175cmなんで、並んで立った時に上の線がまっすぐになるのがカッコいいなとか、そっちを重視してました(笑)。ただ運がいいのか、ダウン・タウンに集まった彼らは、みんな今聴いてもすごくいいプレーヤーだったからね。

──そして念願のレコーディング。レコードは売れたんですか?

取材は大量の楽器に囲まれた宇崎さんの作曲スタジオで。痩身の秘密は「嫁が作る野菜8割、肉・魚2割の食事のお陰かな」

全くダメ。第一、僕らに最初に来た仕事はビアガーデンのバンドですから(笑)。銀座のど真ん中で30分ずつ1日5ステージ、それを夏の間じゅう2カ月。こりゃもう絶望的ですよね。でもそれをやってたおかげで、バンドとしてのリハーサルができたわけです。その店でCharや内藤やす子、カルメン・マキとも知り合ったり。要するに、当時ロックは世の中に認められてないから、ビアガーデンかゴーゴークラブくらいしか仕事がなかったんですよ。

──その後2年間の冷や飯食いが「スモーキン・ブギ」で一変して。

パチンコ屋から曲が流れてきて、「何かこれ、当たってんのか?」っていう瞬間はうれしかったですね。

あれ、実は熱海でできたんです。会社から「熱海つるやホテルに1カ月行ってこい」と言われ、寮みたいなとこに入れられて。朝晩は飯が出るけど、1文も持たずに行ってるから、昼飯とタバコ代に困ってね。他の人がセブンスター、ハイライトを吸ってる時に、僕らは安いタバコばかり。最後は40円の朝日とかゴールデンバット吸ってました。当時和田(静男)君はまだ学生で、試験があるから時々東京に帰っちゃう。「和田、戻りが間に合わなきゃ1ステージ目は俺たちだけでやってるから、何とか東京で煙草買ってきて」(笑)。そんな中で「新井(武士)君、何か詞書いてよ」って言って、できてきたのがスモーキン・ブギ。だからあれは非常に切実な歌なんです(笑)。

あれから41年たって、タバコの歌は世相的にはもうNGですよね。でも、やりにくいなとは思わない。というのは今、僕のライブを見に来るお客さんの層が、やっぱり自分の年齢に近い感じなので。そういう世代は野外フェスで「コーラスの部分、『スーッ、パッパ』でよろしく」と言うと「イエー!!」と喜んでくれる。一方「港のヨーコ」はTVでよく使われてたこともあって、イントロを弾くだけであらゆる世代が分かってくれますね。

──これまでおよそ何曲くらい作られたんですか?

例えば映画の中で20曲作るとかもあるし、芝居やダンス、ドラマの音楽もある。だから結構多くて、歌ものだけでも2000曲くらいかな。インストルメンタルも入れると約5000曲。ただ、その全てを覚えてはいないけど(笑)。

最近は頼まれれば社歌や校歌、市歌、何でも作りますよ。そういう歌はヒットチャートには乗らない代わりに、流行歌より長く受け継がれていく。作曲家冥利に尽きるのは、百恵さんに売れる歌をたくさん書かせてもらった、というようなこともあるけど、長く残る歌を書くことにもあるんです。

──宇崎さんは69歳。するともう年金をもらっていらっしゃる?

4、5年前に登録に行きました。係の人が計算してくれて「宇崎さんはこれだけです」って見せてくれたんだけど、あんまり低いんで「何これ? これじゃ暮らせないじゃん」って窓口で驚きましたよ。確か10万円前後だったかな。

とはいえ僕はお金ためようと思ったことは一度もなくて、お金の使い方も大ざっぱ。初任給2万円でしたから社会人5、6年目までは家計も苦しかったはずだけど、自分の給料で全部賄えてると思ってました。本当は嫁(阿木燿子さん)が稼いでたわけです。それくらい常識がないのね。

むしろお金といえばギャラの不払いとか、持ち逃げされる話の方が多い。永ちゃんなんかも何度かそういう目に遭ってますが、僕も40年の間に、1500万円くらいの不払い業者が3人いました。だいたい自己破産しますが、中にはずうずうしい奴もいて、3年くらいすると「また仕事しましょう」とか言いに来る(笑)。もちろんやりませんけどね。ただ、プロはそういう所から立ち直っていかないと。そういう運命なんですよ。投資でも、一度も失敗しないでもうかり続けたら、反省というものがないですからね。

(聞き手/大口克人 撮影/大沼正彦)

[日経マネー2015年12月号の記事を再構成]

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