「悪魔のささやき」で取り消される 遺言の弱点弁護士 遠藤英嗣

相続人にとって、「遺言」は強烈な存在です。法定相続分が大きく変えられてしまったり、場合によっては、遺留分さえももらえなかったりする相続人も現れる可能性があるのです。しかし半面、遺言は弱点も持っています。

遺言はほごにできる

私は公証人時代、二千数百通の遺言を作成しました。すべての遺言が内容通りに実現することを確信し、家族関係や資産関係を聞き、最善の内容になるように心を込めて作成しました。その遺言の内容が、まさかほごにされるかもしれないなどとは、私も、また遺言者自身も思ったことがありませんでした。

しかし、遺言はほごにされる可能性があります。それは、相続人全員が合意した場合です。遺言者の死後、相続人によって遺産分割の協議がなされ、合意に至ると、遺言に従うことなく遺産の分配が可能になるのです。遺言者の思いは相続人には伝わらず、結果、何のために遺言を作成したのか、むなしい気持ちだけが残るのです。

また、遺言は本人に意思能力がある限り、自由に撤回し、書き換えができます。このことを利用し、強欲な相続人が遺言を悪用することがあります。私は、このような遺言を「悪魔の甘いささやきによる遺言」と呼んでいます。ある事例を紹介しましょう。

男性のSさんと女性のBさんは30年間、内縁関係にありましたが、ある事情で婚姻に至りませんでした。Sさんには親から相続した土地があり、そこにBさんが建物を建てて一緒に住んでいました。2人とも高齢になって病院通いが多くなり、近所に住むBさんの長女Cさんの世話を受けるようになって数年過ぎました。

Sさんには子供はいません。兄姉はすでに死亡していて、相続人は4人のおい、めいですが、日ごろ交際はほとんどありませんでした。そこで、Sさんは世話になったBさん、そしてCさんのために遺言を作成し、土地を残すことにしました。Bさんの知り合いの相続アドバイザーの助言を受け、手書きの遺言書を作成したのです。内容は、土地をBさんに、Bさんが先に死亡したらCさんに遺贈するというものです。

その後、Sさんは自立歩行が困難となり、Bさんの家を出て医療施設が付帯した老人ホームに入所しました。手続きなどはすべてCさんがしました。その後、Sさんは重い病気を患い、医療施設に移り、ベッドで寝たきりの生活になったのです。

これをすばやく聞きつけたのが、相続人の一人、めいのXさんです。Xさんは生活態度が悪く、Xさんの母親、つまりSさんの亡くなった姉をかつて困らせていたため、SさんはXさんを快く思っていませんでした。Xさんの狙いはSさんの土地です。Xさんは自分の長女Yさん家族とともにSさんの元を訪ね、Cさんを病院から締め出しました。さらに、連日のようにYさん家族が病院に通い、Sさんを見舞って世話をし始めたのです。

公証人は作成を拒否できない

自分自身で身の回りのことができなくなると、人は弱いものです。ましてや、病気を患っていたらなおさらです。Sさんは最初はXさんやYさんを嫌っていましたが、頼りにするCさんは病院から締め出されています。Yさん家族が世話をしているうちに、気持ちは次第にYさん家族のほうに向き始めたのです。

こうして、Xさんらの「甘いささやき」が奏功し、「すべての財産はYさんに遺贈する」というSさんの遺言を手に入れたのです。最初のうちはYさんの行為に疑いの目を向けていたSさんですが、病気でわらにもすがりたいという誘惑に負けてしまったわけです。

公証人のところには、本例のような遺言作成が持ち込まれることがあります。公証人はすべてを知って遺言書を作成するわけではありません。公証人が知りうることの多くは、最後の部分だけ。遺言の内容が本人の意思か否かだけなのです。

遺言の作成を依頼されると、公証人は医療施設を訪ね、本人に判断能力が認められ、かつ、遺言内容の通りに口述されるならば遺言公正証書を作成します。本例のような場合でも、遺言を書き換える理由が合理的で、本人の意思が確認できるなら遺言を作成します。悪意ある相続人の「悪魔のささやき」ではなく、相続人が誠心誠意尽くした結果、遺言内容を書き換えたくなったというケースもあるからです。

さらに、公証人は、違法または無効な内容でない限り、理由なく公正証書の作成は拒否できないことになっています。

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