N
ライフコラム
法廷ものがたり

中学受験前に体育でケガ 母親の無念

2016/1/6

法廷ものがたり

裁判記録をとじた厚いファイルを開き、埋もれた事案に目を向けてみれば、当事者たちの人生や複雑な現代社会の断片が浮かび上がってくる。裁判担当記者の心のアンテナに触れた無名の物語を伝える。

中学受験を控えた小学6年の児童が、体育の時間に跳び箱から落ちてケガをした。追い込みの時期になっても治療は続き、勉強が手に付かないまま目標としていた私立難関中学の受験を断念。母親は「志望校に進学できなかったのは事故のリスクに注意していなかった担任のせい」として自治体に慰謝料を求める訴訟を起こした。

11月のある日、東京都内の小学校の体育館で跳び箱の授業が行われていた。その日のテーマは跳び箱の上で前転する「台上前転」。小学校では跳び箱基本技の一つだ。約40人の児童がレベル別に4~5グループに分かれ、熱心に練習を繰り返していた。

跳び箱で首をひねり落下

「ガタンッ」。1人の男児が5段の跳び箱に頭をついて回ろうとした際に、首をひねって横に落ちた。「大丈夫?」。隣で補助についていた別の児童が声をかけ、別のグループの指導をしていた担任の男性教師は男児のもとに駆け寄った。

うずくまった男児は首を痛めているようだった。担任教師は男児を体育館の端に連れて行き、残りの授業を休ませた。授業終了後、「首は大丈夫か」と声をかけたが、男児は特に痛がる様子もなく「大丈夫」と答えた。

担任教師は下校前にも男児に首の状態を尋ねたが、男児はその時も「大丈夫」と答えた。担任教師は、日常的に保護者との連絡に使っている連絡帳に事故のことは書かなかった。

放課後、いつものように車で迎えにきた母親は車中、首を気にしている男児に「どうしたの?」と尋ねた。男児は「学校で首をひねったかもしれない」と答え、事故のことは言わなかった。母親もそれ以上は気にしなかった。

翌日以降も男児はいつも通り登校し、翌々日の体育の授業ではハードル走に参加した。しかし、家では調子が悪そうで、しきりに首を気にするそぶりを見せた。心配した母親が男児を大学病院に連れて行くと、医師は「首の関節が脱臼したような状態で曲がっている」と診断した。

首の治療で勉強手に付かず、志望校を断念

首の骨が柔らかい子供の場合、事故でなくてもこうした症状は起こりうる。男児は5日間入院し、痛みに耐えながらけん引の治療を受けた。症状は改善したが、退院後も定期的に受診し、治療を続ける必要があった。

問題は中学受験シーズンが近づいていたことだった。男児は小学3年から中学受験の塾に週5日ほど通い、成績はクラスでもトップクラス。1月下旬に試験がある私立難関校を目指していた。

受験生にとって勝負の時期の12月、1月を迎えても通院治療は続いた。勉強は手に付かず、焦りから精神的に不安定になった。男児は志望校の受験を取りやめ、首のコルセットをつけたまま受けられる「安全校」を1校受け、特待生として合格した。

「そもそも担任教師がしっかり注意していれば事故は起きず、志望校に進学できていたはずだ」。納得のいかない親は慰謝料など約210万円の支払いを求め、東京地裁に訴えた。

裁判で母親は「志望校に合格する可能性は非常に高かったが、事故のせいで追い込みの時期にまったく勉強できなかった」と主張。自治体側は「そもそも担任は注意義務に違反していないし、事故と受験に因果関係もない」と反論した。

地裁、担任の注意義務違反認めず

地裁は判決で、まず「跳び箱などの体育の授業は危険性を含むので、児童の能力に応じた適切な指導をしていれば、仮に事故が起きても注意義務違反ではない」との基準を示した。今回のケースでは▽担任は能力に応じて児童をグループ分けしていた▽それぞれに段階的な目標を設定していた▽跳び箱の左右に補助役の児童を置いていた――などから「注意義務を尽くしていたといえる」と認めた。

ただ、男児が痛めた首は慎重に判断しなければいけない重要な部位だとして、「児童が『大丈夫』と言ったとしても問題がないとは判断できず、経過を慎重に観察する必要があった」と指摘。連絡帳や電話で簡単に母親に伝えられるのに連絡せず、「母親が通院について検討する機会を奪った」として、5万円の慰謝料のみ認めた。

判決は母親が強く訴えていた中学受験との因果関係について全く触れなかった。母親にしてみれば、息子と二人三脚で合格を目指してきた中学受験を全うできなかった無念さを、学校にぶつけたかったに違いない。しかし、担任による注意義務違反が認定されない以上、中学受験への影響については論じるまでもなかった。

地裁の判決を不服として、男児側は控訴したが、高裁も判断を変えず、「小学校6年生で首に異常を感じた場合は保護者に訴える能力がある」とする一文を付け加えた。男児側はさらに上告したが、最高裁でも退けられ、判決は確定した。

(社会部 山田薫)

注目記事