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舞台・演劇

演劇回顧2015 言葉本来の確かさを取り戻す闘い

2015/12/22

外国人への敵意をあおるヘイトスピーチ。不祥事を前に責任を押しつけ合う経済人の言葉。熟慮から遠い政治家の紋切り型発言。ちまたにあふれる言葉が薄っぺらになっていないか。戦後70年の今年、演劇界をふりかえって思い返されるのは、劇場という場で言葉本来の確かさを取り返そうとするアーティストたちの闘いだ。

80歳になった蜷川幸雄がしきりと「セリフが気になってしょうがない」ともらしたのは象徴的だった。視覚効果や身体の熱を重んじてきた演出家から、言葉の厳密なニュアンスを求める必死の思いを聞いた。8度目になる「ハムレット」(シェークスピア作)は集大成といえる演出だったが、それは主演の藤原竜也のセリフをたたき直した成果でもあった。

世界の矛盾と対決するセリフ。あるいは激しい憎悪の先に和解を模索するセリフ。それらに真の響きを宿らせねば……。車いすと酸素ボンベが欠かせない蜷川の稽古場は2015年の演劇界を象徴する「言葉の戦場」だった。

年間の舞台成果を考えるとき、やはり時代と向き合う言葉の格闘をよりどころとしたい。まず挙げたいのは新鋭劇団チョコレートケーキの「追憶のアリラン」(古川健作、日澤雄介演出)。第2次世界大戦後の北朝鮮で人民裁判にかけられる日本人検事と朝鮮人との間で繰り広げられる愛憎のドラマは、忘れてはならない歴史の断面を浮き彫りにした。戦後、元憲兵隊長が思わず発する「非国民め」の語気。それがこの国に潜在する同調圧力を暴き出していた。歴史に対する誠実な態度とは何か、主演した佐藤誓の演技が映しだしたのである。

古川・日澤コンビは両親と祖母を殺した少年と祖父の再生を描くトム・プロジェクトの「スィートホーム」、渡米した原爆乙女の苦しみに光をあてたOn7(オンナナ)の「その頬、熱線に焼かれ」と秀作を連発。「スィートホーム」の祖父役、高橋長英がこの人としては最高の演技をみせたのも忘れがたい。

福島県いわき市の演劇人が創作した原発3部作の第2作「愛と死を抱きしめて」は地域演劇の果敢な取り組みだった

特筆したいのは、福島県のいわき市で原発3部作に取り組むITPいわき演劇プロジェクトの高木達だ。自ら劇場監督をつとめる新開場の「いわきPIT」で第2部「愛と死を抱きしめて」を作・演出した。事故直後の苦しみを描く前作から時をさかのぼり、原発建設時の地元の貧しさや電力の夢などを老女の回想からたどった。土地の言葉でしか表せないリアルな手触りによる福島の年代記といえる。この地域演劇の労作にぜひ東京公演の機会を。

演出家の中核として存在感を示したのは栗山民也、宮城聡だ。

栗山演出の中では手塚治虫の漫画を原作とした神奈川芸術劇場の「アドルフに告ぐ」(木内宏昌台本)が傑出していた。日独の大戦から戦後の中東紛争までを視野に収める歴史劇。楽士を配し、セリフの音感から人間が獣のような存在になっていく恐怖をえぐった。幼なじみが宿命の敵となり、普通の人間が非寛容の怪物と化す。ホロコーストの悲劇を出発点とする演出家の、これも集大成といえる舞台だった。成河(ソンハ)の熱演を改めてたたえよう。

手塚漫画の鉱脈は深い。鉄腕アトムの世界をイラク戦争後のテロリズムに重ねたBunkamura制作「プルートゥ PLUTO」(浦沢直樹原作、谷賢一台本)でみせたシェルカウイ演出も強靱(きょうじん)にして斬新。未完成の舞台ながら、光の点滅で爆撃の恐怖を示し、ロボットの哀感を奇抜な装置で示す演出は見事。これからの舞台表現を示唆するだけの才気にあふれていた。飛行する森山未来のダンサーとしての魅力も記しておこう。名作漫画には舞台化できる秀作が数多いだけに、構成力にたけた脚本のプロを育てたい。

多作の栗山はホリプロ制作「デスノート The Musical」(ワイルドホーン音楽)でも、原作漫画から全能感に支配された人間の恐怖をえぐりだした。韓国公演も成功させ、創作ミュージカルの歴史に一ページを加えた。アルメニアの虐殺を背景にした夫婦のドラマ「月の獣」(リチャード・カリノスキー作)、セクシュアル・ハラスメントを題材とした社会問題劇「オレアナ」(デイヴィッド・マメット作)など翻訳劇でも強い印象を残している。

昨年の仏アヴィニョン芸術祭で賛辞を集めた静岡県舞台芸術センター(SPAC)。芸術総監督の宮城聡が演出し、棚川寛子が音楽を手がける歌舞劇がダイナミックな展開をみせた。宮沢賢治の童話を原作とした「グスコーブドリの伝記」(山崎ナオコーラ台本)が美加理の透明感あふれる少年役を得て、災害とともに生きる人間の言葉を詩的にすくいとった。国家が専制化するとき、言論にかかわる劇場はどうあるべきか。「メフィストと呼ばれた男」(トム・ラノワ作)では、ナチス台頭下の劇場に焦点をあてた。いわば公共劇場による「公共」の問い直し。宮城の時代意識は鋭利だ。

韓国の光州でアジアのハブ劇場を目指すアジア芸術劇場が9月、オープンした。国を挙げて文化振興に取り組む韓国の拠点だ。表現への検閲が取りざたされる現状は心配だが、俳優教育で日本のはるか先を行く韓国は舞台芸術の創作面でもアジアの中心をにない始めたといえる。イランのキアロスタミらに交じって岡田利規(チェルフィッチュ主宰)が新劇場のオープニングに参加し、野球を題材に日韓の現代史を寓意化(ぐういか)した多重言語による「God Bless Baseball」を作・演出した。次いでフェスティバル/トーキョー(F/T)でも上演し、個性的な独白体の可能性を広げてみせた。

日韓合作に継続的に取り組む多田淳之介も「颱風奇譚(たいふうきたん)」(ソン・ギウン作)を演出し、シェークスピアの「テンペスト」を大胆に翻案。孤島にこもる「前近代」の朝鮮王族と「近代」をもちこむ日本人とが交錯する奇想は乱調をはらみつつも、異彩を放った。舞台にかける韓国人俳優の熱量によるものだろう。

アクチュアルな舞台を創作する新鋭たちの列に加えたいのは木ノ下裕一、藤田貴大、長田育恵だ。木ノ下は歌舞伎の現代化を構成台本で実験する異能の才人。東京芸術劇場で通し上演した「三人吉三」(杉原邦生演出)で黙阿弥の原作を彫り上げ、人間の闇のドラマに仕上げた。リフレインの手法で知られる藤田は少女が直面した沖縄戦の悲劇をえぐる秀作「cocoon」(今日マチ子原作)で渾身(こんしん)の再演出。長田はグループる・ばるに書き下ろした「蜜柑とユウウツ~茨木のり子異聞~」(マキノノゾミ演出)で、戦争のいたみと孤独な女性の繊細な心を共振させた。時代の予兆を敏感にとらえる3人は次の飛躍に向け試行錯誤を重ねている。これからの進境に期待したい。

次代をになう演出家として森新太郎(オフィス・コットーネ「人民の敵」など)、上村聡史(風姿花伝プロデュース「悲しみを聴く石」など)、小川絵梨子(シス・カンパニー「RED」など)の名を挙げておこう。彼らもまた大きな劇場の空間構成や劇作家と共同する創作劇で地力を発揮できるか、正念場を迎えている。未来の演劇界のため、若い世代に刺激となる場を与えたい。

野田秀樹が立ち上げた「東京キャラバン」のワークショップに参加した松たか子(左)と宮沢りえ=東京都提供

ベテラン世代では野田秀樹が美術家の名和晃平、日比野克彦らと組んで東京五輪に向けたプロジェクト「東京キャラバン」を始動、多ジャンルが混交するカーニバルの熱を駒沢オリンピック公園で試演した。五輪を機に多彩な文化プログラムが試みられる見込みだが、若いアーティストが連続的に出会う場づくりが重要だ。「文化は交通である」という野田の呼びかけを重くみたい。ケラリーノ・サンドロヴィッチがチェーホフの「三人姉妹」や太宰治の未完の小説を劇化した「グッドバイ」で演出のさえをみせた。

シス・カンパニー、梅田芸術劇場、パルコ劇場などの制作に見るべきものがあったとはいえ、創作劇のプロデュース公演の劣化が著しい。稽古前に人気タレントの名前だけで切符を売り、フタを開けてみればトンデモナイ駄作。そんな芝居がますます増えているから、観客は要注意である。寄せ集めの配役によるプロデュース公演の惨状は目をおおうばかりだった。効率優先の芝居作りは粗製乱造を生み、結局は観客を失わせる。そうした嘆かわしい趨勢が一部公共劇場にまで及んでいるかにみえる。これは、どうしたことか。

現代演劇の殿堂であるべき新国立劇場が戦後70年にふさわしい大作を発信できなかったのは残念。予算減による困難をおいても、いくつかの舞台からはプロデュース公演の限界も透けてみえた。タレント頼みの演劇界と一線を画す意味でも、カンパニー制を検討する時期にきていないか。

加えて開場以来空席の芸術総監督を置くといった大胆な方針変更も促したい。国際的に活躍する芸術監督を招くのも一案だろう。舞台芸術分野における韓国や中国の勃興を思えば、東京五輪に向けて真のナショナルシアターを再構築する議論が必要となってきている。

一方で、既成劇団はチーム力をしぶとく発揮した。ことに文学座はめざましい1年をおくった。鵜山仁演出、平淑恵主演で財産演目「女の一生」(森本薫作)に歴史劇としての魅力を加え、急逝した高瀬久男の演出遺作となった「明治の柩(ひつぎ)」(宮本研作)で見事なアンサンブルを築いた。マキノノゾミが書き下ろした野口英世の評伝劇「再びこの地を踏まず」(西川信廣演出)も中堅の今井朋彦らが好舞台に練り上げた。実験の場となるアトリエ公演も健在。メルヴィルの「白鯨」(セバスチャン・アーメスト脚本、12月22日まで上演中)で、高橋正徳が何もない空間に海の気配を満たす機知に富む演出をした。

文学座は文化座・東演と共作した三好十郎の討論劇「廃虚」(鵜山仁演出)、前進座に協力した「南の島に雪が降る」(加東大介原作、西川演出)、可児市文化創造センターと提携した「すててこてこてこ」(吉永仁郎作、西川演出)でも強さをみせた。やはり集団芸術としてのパワーが演劇の生命線であり、原点なのである。

老舗ならではの地道な取り組みをもう少し挙げておこう。死のみとりの問題に迫る創作劇を女優が書き下ろした俳優座の「ラスト・イン・ラプソディ」(美苗作、原田一樹演出)。宮本研の代表作に正面から挑んだ青年座の「からゆきさん」(伊藤大演出)。奈良岡朋子の円熟の演技にうならされた民芸の「根岸庵律女」(小幡欣治作、丹野郁弓演出)。それぞれに緊密なアンサンブルが生きていた。

1960年代から活躍する劇作家たちが病気などで引退を余儀なくされているのはさびしい限りだが、パーキンソン病と闘病中の劇作家、別役実が新作執筆を再開した。その創作活動を励ますかのようにフェスティバルが開かれ、新旧作品が連続上演された。日本語の不条理劇を切り開く偉業を多くの演劇人がかみしめたのは意義深いできごとだ。こまつ座の努力によって井上ひさし作品も没後、上演が絶えない。作品を生かし続けられるかどうかは、後世の演劇人次第である。

商業演劇の雄、東宝に変化が見えた。残念ながら8年前に芸術座をシアタークリエと改め新開場してから創作劇がふるわないが、今年、森光子の代表作「おもろい女」と「放浪記」をそれぞれ藤山直美、仲間由紀恵主演で復活させ、見応えがあった。東宝演劇の総帥だった菊田一夫の演劇的遺産のうち、何をどう継承するか。過去の名作を作品の質にたちかえって見直し、演出の力で現代化する努力がいっそう求められよう。

劇団四季はディズニー・ミュージカル「アラジン」でロングランをスタートした(C)Disney

ミュージカルは劇団四季がディズニー・ミュージカル「アラジン」でロングランを開始。創作舞台としては「デスノート The Musical」をのぞけば宝塚にやはり軍配があがる。一揆を舞台化した「星逢一夜(ほしあいひとよ)」(上田久実子作・演出)を出したあたり、底力を感じさせた。

歌舞伎は勘三郎に続く三津五郎の死、福助の長期休演で世代構成に空洞ができ、芸の継承を心配する声があがる。人気漫画を舞台化した猿之助のスーパー歌舞伎2「ワンピース」がキャラクターの面白さを生かしていたのは驚嘆に値するし、染五郎の歌舞伎NEXT「阿弖流為(アテルイ)」(いのうえひでのり演出)も勘九郎、七之助を巻き込み力強かったが、父親世代の身体的衰えが心配されるなか、芸を受け継ぐのは今。その点、政岡や阿古屋で当代女形の規範を示した玉三郎が後進育成の姿勢を見せたのは頼もしく、菊之助が次々大役に挑む姿に危機感が映る。吉右衛門は風格と現代性を兼ね備える時代物の大役をになって比類なく、仁左衛門も菅承丞で神品といえる存在感だった。まさに今見ておくべき芸である。

文楽は嶋大夫が引退を表明した。咲大夫が健在とはいえ、後進の成長が待たれる。なかで文字久大夫の力が増しているのは心強い。人形は玉女が二代目玉男襲名を機に芸格をひとまわり大きくした。盤石とはいえない文楽だけにファンの支えが必要なときだろう。

戦争を知る世代の俳優、加藤武、熊倉一雄が亡くなった。歌舞伎の三津五郎、文学座の演出家、高瀬久男の死は大きな喪失感をもたらした。劇評家の扇田昭彦、村井健も。劇評家の後継者難が演劇界あげての課題となってきた。言葉がなければ、舞台の感動は後世に残らないからだ。

(編集委員 内田洋一)

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